第1820日目 〈エズラ記(ラテン語)第6章2/2&第7章1/2〈第三の幻〉1/2:〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉他with今年いちばんのビッグニュースはなに?〉 [エズラ記(ラテン語)]

 エズラ記(ラテン語)第6章2/2と第7章1/2〈第三の幻〉1/2です。

 エズ・ラ6:35-59〈エズラの問い──創造の意図と現実との開き〉
 この後、わたしは泣きながら、以前と同じように七日間の断食を行った。言われたとおり三週間続けるつもりだった。ところが八日目の夜、わたしの心が再び落ち着かなくなり、わたしはいと高き方の前で話し始めた。わたしの霊は激しく燃え、魂は不安であった。
 わたしは言った。「ああ、主よ、あなたは創造の初め、第一日目に、『天と地は成れ』とお命じになり、御言葉はその業を行いました。そのとき霊が漂い、暗闇と静寂が辺りを覆った。人の声はまだ造られていませんでした。そこであなたは、御業が明らかに現れるようにと、倉の中から光が出るようにお命じになりました。
 二日目に、あなたは再び大空の霊を造られ、その霊に、水を分けて境をつけ、その一部を上に退かせ、一部を下にとどまらせるようにと命じられました。
 三日目にあなたは、水に、地の第七の部分へ集まるように命じられ、他の六つの部分は乾かして、種を蒔き耕す用地として、御自分の前に確保されました。御言葉が発せられると、直ちに御業は行われました。おびただしい数の、しかも食欲をそそる様々な味の果実や、たぐいなく美しい色の花が直ちに生え出て、究め難い香りが漂いだしました。これが、三日目に起こったことでした。
 四日目に、あなたは命令を下して、太陽が輝き、月が光るようにされ、星の位置を定められました。そして、やがて造られる人に仕えるよう、それらにお命じになりました。
 五日目にあなたは、水が集まっている第七の部分に、生き物や鳥や魚を生み出すように命じられました。すると、そのとおりになりました。声もなく、生命もない水が、お命じになった生き物を造ったのです。それは、諸国の民にあなたの不思議な業をたたえさせるためでした。それからあなたは、二つの生き物をえり分けられ、その一つをベヘモット、もう一つをレビヤタンと名付けられました。そしてあなたは、両者を互いに引き離されました。水が集まっている第七の部分に両者を置くことができなかったからです。そしてベヘモットには三日目に乾いた土地の一部を与え、そこに住むようにされました。そこは一千の山のある土地でした。レビヤタンには水のある第七の部分をお与えになりました。あなたはこの二つを保存し、あなたのお望みのとき、お望みの人々に食べさせるようにされました。
 六日目にあなたは陸にお命じになり、御前に家畜と獣と這うものを造らせ、その上にアダムを造らせました。そしてあなたは彼を、お造りになったすべての被造物の頭とされました。あなたが民としてお選びになったわたしたちは皆、このアダムから生まれ出たのです。
 主よ、わたしがあなたの前でこれらのことをすべて語ったのは、最初の創造として世をお造りになったのは、わたしたちのためだ、とあなたが言われたからです。また、あなたは、アダムから生まれたほかの諸民族は無に等しい、と言われ、彼らは唾のようなもので、その数がいかに多くても器からこぼれる一滴にすぎないと言われたのです。
 しかし、主よ、この何者でもないとされた諸民族が、今、わたしたちを支配し、呑み尽くそうとしております。わたしたちは、あなたが初子、独り子、いとしい者、最愛な者と呼ばれたあなたの民であるのに、諸民族の手に渡されています。もし、世がわたしたちのために造られたのなら、どうしてわたしたちが自分たちの世を相続できないのでしょうか。このようなことがいつまで続くのでしょうか。」

 エズ・ラ7:1-44〈天使の答え──裁きと相応の報い〉
 わたしがこれらのことを言い終えると、前の夜に遣わされた天使が再びわたしのところに遣わされて来た。
 天使は言った。「エズラ、立ちなさい。わたしがあなたに告げに来た言葉を聞きなさい。」
 わたしは言った。「わが主よ、お話しください。」
 天使は言った。「海は広い場所に置かれていて、深く限りない。しかし、その入り口は狭い場所にあって、川のようである。もしだれかが、海を見たり航海したりするために海に入ろうとしても、その狭い場所を通らなければ、どうして広い海原に行けるだろうか。たとえをもう一つ。ある町が平らな地に建てられており、そこにはあらゆる物が豊富にある。しかし、町の入り口は狭く、険しいところにあり、右に火が、左に深い淵がある。その間、すなわち水と火の間には、たった一本の道しかなく、しかもそれは一人の人がやっと通れるくらいの小道である。もしこの町が、ある人に遺産として与えられたとしても、その人が、目前の危険を乗り越えなければ、どうしてその遺産を相続できるだろうか。」
 わたしは言った。「主よ、そのとおりです。」
 天使は言った。「イスラエルの相続分もこのようなものである。わたしは彼らのために世を造った。アダムがわたしの戒めを破ったとき、被造物が裁かれた。そして、この世の出入り口は、狭く、悲しみと労苦に満ちたものとなり、またその数も少なく、状態も悪く、危険をはらみ、大きな困難を強いるものとなった。しかし大いなる世への入り口は、広く安全で、不死の実をもたらしてくれる。だから、生きている者は、この狭くむなしい所に入らなければ、備えられたものを受けることができないのである。それなのになぜあなたは、自分が朽ちるべきものだといって、心を乱すのか。なぜ、自分が死ぬべきものだといって、動揺するのか。なぜ、今あるものにだけ心を留めて将来のものに心を留めないのか。」
 わたしは答えた。「統べ治める方、主よ、あなたは、これらのものを受け継ぐのは正しい人々であり、不敬虔な人々は滅びると、律法に定められました。正しい人々は広い所を希望しつつ、狭い所に耐えています。不敬虔に生きた者は、狭さに苦しみながら、広い所をも見ることはできませんでした。」
 天使は言った。「あなたは主にまさる裁き手でもなく、いと高き方より賢くもない。人々に与えられた神の律法が軽んじられるくらいなら、今いる多くの人々が滅びる方がましである。主は、人々がこの世に生まれて来る度に、どうしたら生き永らえるか、何を守れば罰せられないで済むかを、諭された。しかし人々は言うことを聞かず、主に逆らい、自分勝手にむなしいことを考え出し、邪悪な欺きを企てた。そしていと高き方は存在しないと豪語し、その道を認めなかった。また、律法を軽んじ、契約を拒み、その戒めに忠実でなく、いと高き方の御業を行わなかった。
 このゆえに、エズラよ、むなしい者にはむなしいものが与えられ、豊かな人々には豊かなものが与えられるのである。見よ、その時がやって来る。その時には、わたしが予告したしるしが現れ、町が花嫁となって姿を見せ、今はまだ隠されている地が見えてくる。わたしが予告した悪から救われた人は皆、わたしのこの不思議な業を見る。すなわち、わが子イエスが、彼に従う人々と共に現れ、生き残った人々に四百年の間喜びを与える。その後、わが子キリストも息ある人も皆死ぬ。そして世は、初めのときのように、七日間、太古の静寂に戻り、一人も生き残ってはいない。
 七日間が過ぎたとき、まだ目覚めていない世は揺り起こされて、朽ちるべき世界は滅びる。大地は地中に眠る人々を地上に返し、塵はその中に黙して住んでいる人々を戻し、陰府の部屋はそこに預けられていた魂を外に出す。
 そしていと高き方が、裁きの座に姿を現す。もはや憐れみはなく、寛大さは跡形もない。そこには裁きあるのみである。真理は立ち、信仰は力を得る。そして、裁きは執行され、報いが示される。正義は目覚め、不正は眠っていられなくなる。
 懲らしめの穴が現れ、その反対側には安息の場所がある。また、地獄のかまどが示され、その反対側には喜びの楽園が見える。そのとき、いと高き方は、揺り起こされた諸民族に告げる。『よく見て、思い知れ、あなたたちが拒んだのはだれなのか、だれに仕えなかったのか、だれの心遣いを軽んじたのかを。あちらとこちらとを見比べるがよい。こちらには喜びと安らぎがあり、あちらには火と懲らしめがある』と。これが裁きの日に彼らに告げられる主の言葉である。
 その日には、太陽も月も星もなく、雲も雷も稲妻もなく、風も水も大気もなく、闇も夕暮れも朝もない。また、夏も春も暑さもなく、冬も霜も寒さもなく、雹も雨も露もない。真昼も夜も夜明けもなく、きらめきも、明るさも、光もない。ただあるのはいと高き方の栄光の輝きのみであり、この輝きによって、人は皆、自分の目の前にあるものを見る。その期間は七年である。
 これがわたしの裁きであり、裁きの定めである。わたしはあなたにだけ、これを示したのである。」

 エズ・ラ7:45-61〈救われる人の多少について〉
 わたしは答えた。「主よ、前にも申しましたが、今また申します。今、あなたの定めを守って生きている人々は幸いです。しかし、わたしが祈った人たちはどうでしょう。今生きている人々の中で、罪を犯さなかった者がいるでしょうか。生まれて来た人々の中で、あなたの契約を破らなかった者がいるでしょうか。わたしは、今分かりました。来るべき世に喜びを受けるのはごくわずかな人々であり、多くの人々は懲らしめを受けるのです。実にわたしたちの中には悪い心が増大し、あなたの定めからわたしたちを引き離し、腐敗へと導き、また、わたしたちに死への旅路、滅びへの道を示して、わたしたちを生命から遠ざけたからです。しかもそれは少数の人ではなく、造られた人ほとんどすべてなのです。」
 天使は答えた。「よく聞きなさい。あなたに教えよう。次の事柄について誤りを正そう。まさにあなたが言った理由のゆえに、いと高き方は一つではなく、二つの世を造られたのである。正しい人は多くはなく、むしろ少数であり、その一方で不敬虔な人が増えているとあなたは言ったが、この問題の答えを聞きなさい。もしあなたが宝石をごくわずかしか持っていなかったとしたら、それを増やすためにあなたは、鉛や土をこれに加えるであろうか。」
 わたしは言った。「主よ、そんなことはできません。」
 そこで天使は言った。「更に進んで地に尋ねてみよ。答えてくれるだろう。丁重に尋ねてみれば、語ってくれるだろう。地に言いなさい。『金と銀と銅と鉄と鉛と粘土を造り出している。しかし、銀は金よりも多く、銅は銀よりも多く、鉄は銅よりも多く、鉛は鉄よりも多く、粘土は鉛よりも多い。』あなたは、たくさんあるものとわずかしかないものとで、どちらが高価で望ましいと思うか。」
 わたしは言った。「統べ治める方、主よ、ふんだんにある方は価値がなく、少ないものほど価値があります。」
 天使は答えた。「このことから引き出される結論をよく考えなさい。手に入れにくいものを持っている人は、いくらでも手に入るものを持っている人よりも大きな喜びを味わうものである。わたしも、約束した新しい創造を行うときに、わずかしかいなくとも救われる人たちのことを喜ぶだろう。彼らは今やわたしの栄光を優先させ、今やわたしの名をたたえるようになったからである。わたしは、滅びに至る多くの人々のために嘆いたりはしない。彼らは、霧のようであり、炎や煙に等しい者である。焼かれて、燃え上がり、消えてしまったのだ。」

 エズ・ラ7:62-77〈裁きの必然性〉
 わたしは言った。「ああ、大地よ、お前は何を生み出したのか。もし知性が他の被造物とおなじように塵から造られたのなら、塵そのものも生じない方がよかったであろう。そうすれば、知性が塵から生まれてくることもなかったからだ。しかし、今や知性は、わたしたちと共に成長し、このためにわたしたちは苦しめられるのだ。自分たちが滅びることを知りつつ滅びるからである。人類は嘆き、野の獣は喜ぶがよい。生まれてきた人間は皆嘆き、獣と家畜は楽しむがよい。獣の方がわたしたちよりはるかにましなのだから。獣は裁きを待つこともなく、死んだ後に約束されている苦しみや救いを知ることもないからである。懲らしめにさいなまれることになるなら、救いの約束は何の役に立つであろうか。生まれ出た人は皆、不正に染まり、罪に満ち、過ちの重荷を負っているからである。もし、わたしたちが、死んで後に裁きを受けなくてもよかったのなら、恐らくもっと幸せだったかもしれない。」
 天使は答えた。「いと高き方は、この世とアダムと、アダムから生まれたすべての人々を造られるに際して、まず、裁きと裁きにかかわることを前もって備えられたのである。さて、あなたは知性が自分たちと共に成長すると言ったが、このことから問題の解決が得られる。地に住む人たちは、懲らしめを受ける。彼らは知性を持ちながら不正な行いをし、戒めを受けながらそれを守らず、律法を与えられていながらそれをないがしろにしたからである。彼らはいったい、裁きの際に何と申し開きするだろうか。終末の時にどう答えようというのだろうか。いと高き方は、どんなに長期間、世に住む人々のことを寛大に耐えられたことだろう。それも彼らのためではなく、あらかじめ定められた時のためである。」
 わたしは答えた。「主よ、もし、御好意にあずかっているのでしたら、僕に教えてください。死んだ後でも、あるいは今でも、もし、わたしたちがおのおの自分の魂をお返ししたなら、あなたが新たに天地を創造されるときまで、わたしたちは安らぎの中でしっかりと守られることになるのでしょうか、あるいは、すぐに懲らしめを受けるのでしょうか。」
 天使は答えた。「そのことも教えよう。しかし、あなたは自分が律法をあざけった人々の一人であると思ったり、苦しみを受けるべき人々の一人であると考えたりしてはならない。あなたの行いの宝は、いと高き者のもとに蓄えられているからである。もっともその宝は、終わりの時にならなければあなたに示されることはない。」

 報告が遅くなったが、「エズラ記(ラテン語)」の本文については一般財団法人日本聖書協会HPより全文を引用させてもらっている。
 本来ならそのままコピー&ペーストして若干の編集作業を施せば済む話であるが、本書第7章の原稿を作成中、当該HPを利用するにあたっての不備ともいうべき問題に直面したので、それの報告も併せて行わせていただく。
 その残念な不備は、「エズラ記(ラテン語)」第7章の本文が別タブで表示されたときに発生する。通常ならば各章第1節から最終節まで順番にお行儀良く並んでいるのだが、本書本章に於いてはちょっと節が多い(全139節! これは「詩編」第119篇の全176節より少ないが、これまで読んできたなかでは第2位の長さである)ために監視が行き届かなかったのか、表記事故が発生するのであった。
 即ち、第7章第10節のあとに第100-109節が並び、そのあとに第11節と第110-119節、と並ぶのだ。この症例は、第12節以後第13節まで見られる。これがどのような事態を引き起こしているかというと、第99節のあとは第100節以後は表示されない、<次の20件>ボタンはなく、<前の20件>ボタンしかない。ちなみにこれを押下すると第61-99節が2ページにわたって表示され続ける無限ループの始まりだ。あ、これって本章が実は<ネヴァー・エンディング・ストーリー>ってこと? 成る程なぁ、それなら納得かな。なお、当該箇所についてはスクリーンショットも撮影、dropboxに保存してみた。
 冗談や冷やかしはさておき、これを重大な欠陥といわずしてなんといおう。いままで誰も気附かず、誰一人指摘する者がいなかったのだあろうか。或いは、システム上どうしても解決できない問題であるのだろうか。もし後者であればその旨記載するのが、当該HPの果たすべきせめてもの義務ではないか。その程度の配慮などなくても構わぬ、という方針ならば、むろん話は別だ。
 気付かぬまま引用してしまい、それが公になったあと第三者より指摘されて赤っ恥をかく人が今後出ぬことを希望するがゆえに、敢えて本ブログはこの瑕疵を指摘させていただく。



 今年いちばんのビッグニュースってなにかなぁ、と倩考えてみる季節になりました。でも、なにもないのですよね。この「なにも」って部分、いちばん重要なので、特大ポイントで表記したい気分だ。読者諸兄には是非、脳内でここを強調した読み方をしてくださるようお願いする。
 冷静に考えてみると、なにもない、というのはむろん誤りであって、いちばん記憶に残るのは今年前半のパソコンの買い換えとそれに伴うMac愛の発症、今年後半に於いては紅葉シーズンをやや過ぎて落ち着いた空気漂う東北地方への旅行であったろうか。色めいたことがなにもないことは既にお馴染みな話だが、昨年前半に勃発した出来事のような事態に陥れられなかっただけ清々しい気分でいることは事実である。
 そこで来年の目標、というか希望だが……実はあまりないんですよね。現状維持が目標といえば、あまりに志が低すぎるだろうか。しかし、いまの職場で恙なく、大過なく1年を過ごすことができ、同僚や上司とこれまで通り過ごすことができれば、それで構わぬ。
 強いて他に望みがあるとすれば、新約聖書の読書と原稿の執筆が順調に、破綻することなく進められればそれでじゅうぶんだ、ということ。無理ないスケジュールと余裕を持たせて、2015年中の読書完結がたとえできずとも、再来年のイースターまでには。
 大それたことはなにも望まぬ。
 だって過去に起こった不幸をリセットすることなんてできないのだから。亡くなった人は誰一人として帰ってくることはない。◆

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