第1831日目 〈映画『GODZILLA』を観ました。……ようやく感想公開!〉 [日々の思い・独り言]

 嘘偽りのないところを告白すれば、期待半分、冷やかし半分であったのは否定できない。今年公開されたハリウッド版『GODZILLA』を観る前だ。春もまだ浅い頃、インターネットで見附けた怪獣王ゴジラの御姿は、よくいえば恐龍的、悪くいえばメタボなそれであった。まあ、それはどこまでいっても一枚絵の写真でしかなく、おまけに宣材として公にされたものだから相当にシャドーが効いており。──映画館へ行くか否か。最後まで逡巡したのだが、わたくしも子供の頃からゴジラ映画を観続けてきた<ゴジラ党>の1人である(むろん、日本映画専門チャンネルで催されたゴジラ総選挙にも参加した)。ならば、観に行くより他あるまい……。
 もう鑑賞から3ヶ月以上が経つので記憶に鮮やかな部分が本稿の要となるが、いまもくっきりと覚えているのは、中盤のハワイからアメリカ本土へ向かうゴジラを中心に米第7艦隊が円陣になって進む場面と、終盤の力尽きたかに見えたゴジラが突如フレーム・インしてMUTOに喰らい付いて倒すまでの場面だ。他にも冒頭のフクシマを想起させずにはおかない事故やMUTOの出現、中盤ハワイを襲う津波、ゴジラとMUTOの初戦、視界不良のサンフランシスコへ降下する米海兵隊など、殆どの場面を思い起こすことができるけれど、どうしてもいちばん初めに思い出すのは上述の2つの場面なのである。
 これまでもゴジラ映画には多くの軍用兵器が登場してこの怪獣王と戦いを繰り広げてきた。現実の兵器や艦船もあり、架空の兵器類もそのなかにはあった。いずれも対ゴジラのために登場するばかりで、それ以外の役目を仰せつかった兵器はあまりなかったように記憶する。精々が『ゴジラ FINAL WARS』に再登場して南極で眠るゴジラを起こしに出撃した轟天号ぐらいか。
 が、今回のハリウッド版『GODZILLA』で観られる前述の、太平洋をアメリカ本土へ渡るゴジラを見守るように、監視するように、円陣となって航行する米第7艦隊の場面に接して、これこそがわたくしの目にしたかった場面だ、と内心歓声をあげたものだった。
 ジャンル映画には、求めてもなかなか実現のかなわぬ場面や組み合わせというものがある。怪獣映画就中ゴジラ映画に於いてのそれの一つは、破壊者である怪獣を軍の精鋭部隊が警護し、監視する場面──もっとはっきりいってしまえば攻撃なしで随伴に徹する場面ではないか。即ち、本作に於ける太平洋の場面である。空母の艦橋や甲板、ヘリコプターのコクピットから、遠景ながらゴジラの背中や背ビレが見られることのいいようなき感動を読者諸兄にはご想像いただきたいものである!
 そうして、まるでデストロイアをもっと鋭角的、直線的にしたようなデザインのMUTOと、まずはハワイで、続けてサンフランシスコで戦ったゴジラ。本土決戦の場たるサンフランシスコで一旦は倒れ伏したと雖も、主人公たちが洋上で爆破させようと船に載せた小型核ミサイルを執拗に狙うMUTO(メス)の首根っこに、突然フレーム・インして喰らいついて力の限りに嬲った挙げ句、口をこじ開けて放射能熱線(昭和シリーズまでは「放射能火炎」というていた記憶がある)をたっぷり相手の体内に注ぎこんで息の根を止めるゴジラの闘争本能とその最強ッぷりに血湧き肉躍る思いのせぬ鑑賞者がいるのだろうか。もし自分1人のための上映会であったならば、わたくしは必ずやこの一連の場面で椅子から立ちあがり、熱烈な拍手と歓呼の声を送っていたことであろう。そう、あたかもかつての<生ける伝説>カルロス・クライバーがステージへ姿を現した瞬間のように──否、それ以上に気が触れる程に!!
 この一連の流れこそゴジラ映画の醍醐味であり、同時にハリウッド版『GODZILLA』最大の見せ場である。なんだか怪獣王の怪獣王たる所以、誇り、プライド、貫禄を見せつけられた気分だ。ついでにいえば、もぎり取ったMUTOの首を地面に放り投げたりするのではなく、そこら辺のビルに投げつけて<ゴジラ対MUTO(メス)>を固唾を呑んで見物していた人たちが慌てふためく、なんてものになっていたら、印象もやや異なっていたであろうけれど、そうなると今度はその場面が“9.11”を連想させて物議を醸しかねない。ただでさえ、“3.11”を思い出す場面が既に作品のなかで存在しているのだから、実現したら不敬以外の何物でもないか。
 わたくしは本稿冒頭にて、ゴジラの体躯を悪くいえばメタボ、と称した。こんな鈍重な図体でどのようにして敵と戦うんだろう、と小首を傾げたものだったが、映画ではそのメタボ的体躯が異様な説得力を持って迫ってきた。特に人間側の攻撃を意に介すわけでもなく、だが動くだけで津波を引き起こしたり、街を破壊するとなれば、まさしく歩く天災。また本作に於けるゴジラは地上の放射能濃度が高まったために地上に現れた、とされる。その生命体は作中人物によって、「原始生命体の頂点に立つ存在、即ち<神>」と称される。首肯するより他ない。ゴジラのみが持つというあの称号──「KING OF MONSTERS」も伊達ではないのだ。
 東宝のオリジナル・シリーズと比べるのが是か非かは別として、ハリウッド版『GODZILLA』で感服したのは、太平洋戦争後の南太平洋で何度となく行われた水爆実験が、実はゴジラ(になる前の恐龍?)抹殺を目的としていたこと。これは『ゴジラVSキングギドラ』で提示されたゴジラ誕生にまつわる問題にもう一歩踏みこんだものであり、──表現は相応しくないかもしれぬが、新鮮な気持ちで観られたものであった。核保有国、原水爆開発国のアメリカならではの設定と解釈、演出であったと思う。
 広義のディザスター・ムーヴィーらしく、人間ドラマは大味で、少々フンドシのゆるさを感じてしまう。このあたりについてはこの種の映画の宿命と捉えて割り切ろうか。もし上映時間に考慮してカットされたドラマ部分があるのなら、是非にもソフト化の際はそれを復活させたディレクターズ・エディションでの発売を切望する(2015年2月発売予定のソフトではどうなっているのだろうか。渡辺謙に拠れば、撮影が終わったときは4時間程の上映時間を要すものだったそうだが)。
 ハリウッドでは上映前だか上映直後だかより続編の製作が決定。また先日には遂に本家東宝が『ゴジラ FINAL WARS』から12年後の2016年に完全新作を上映する、という。怪獣王ゴジラの堂々復活を告げる<世紀の祭典>の嚆矢を、図らずもギャレス・エドワーズ監督によるハリウッド版『GODZILLA』は担った。万歳!! 人間ドラマ以外のパートについてはほぼ完璧、史上最高峰の怪獣映画に出会えたことに感謝する。◆

 監督:ギャレス・エドワーズ
 脚本:デヴィッド・S・ゴイヤー、マックス・ボレンスタイン、フランク・ダラボン他
 撮影:シェイマス・マクガーヴェイ
 音楽:アレクサンドル・デスプラ   他

 フォード・ブロディ大尉:アーロン・テイラー=ジョンソン
 ジョー・ブロディ:ブライアン・クランストン
 芹沢猪四郎博士:渡辺謙
 ヴィヴィアン・グレアム博士:サリー・ホーキンス
 ウィリアム・ステンツ少将デヴィッド・ストラザーン   他■

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