第1845日目 〈「マタイによる福音書」前夜〉 [マタイによる福音書]

 人々は、新約聖書を読まずともそのなかの言葉の数々に親しんでおります。「明日のことを思い煩うな」という言葉を耳にしたことはないでしょうか。「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」というのは如何でしょう。「狭き門より入れ」、お聞きになったことはありませんか。「みだらな思いで人妻を見る者は誰でも、既に心のなかで彼女を犯している(姦淫している)」や「求めよ、さらば与えられん」といった言葉、どこかで聞いたことはないでしょうか。或いは、「心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである」は?
 これらはいずれも「マタイによる福音書」の「山上の説教」から選んだものであります。特に限ったことではありませんが、われらが知らず馴染んだ言葉の多くが、新約聖書就中「マタイによる福音書」を出典とするのは面白い。それだけ本書が、キリスト者でない日本人にも親しみのある書物であることの証左と申せましょう。
 ドイツの作曲家シュッツや大バッハが書いた作品に《マタイ受難曲》があります。これは「マタイによる福音書」全体ではなくそのクライマックス、イエスの捕縛と処刑(磔刑)、その後の出来事について語った第26-27章を基に台本が書かれて、シュッツや大バッハが作曲したものであります。大バッハの《マタイ受難曲》は昔から演奏や録音の栄に浴すことの多い作品ですが、昨今はシュッツの作品も演奏や録音の機会が多くなってきているようであります。
 「マタイによる福音書」の著者はイエスの12人の弟子(使徒)の1人、徴税人のマタイである──初期教会の頃からそう信じられてきました。マタイが著者である、とする根拠はマタ9:9にあった。そこで語られるのは、弟子としてのマタイ召命であります。が、「マタイによる福音書」以前に成立した「マルコによる福音書」では同じ弟子の召命場面に於いて、イエスに声掛けされて従ったのはやはり徴税人であるレビでした。レビからマタイへ変更されたのは、イエスの弟子の名前をここに紛れこませることで著者をマタイとし、本福音書の一種の権威附けを計ったのかもしれません。もしくは、著者未詳のまま歴史に埋没してゆくのを惜しんでの救済措置であったかもしれぬ。
 ただ、マタイがイエスの12弟子の1人であったことは事実であるから、本福音書の著者問題にどう決着が付こうと、弟子/使徒マタイの実在を否定するものにはならない。両者はけっしてイコールの関係ではないのだ。「マタイによる福音書」はそもそもの始めからギリシア語で書かれた、といいますから、著者もギリシア語で書き物のできた無名ユダヤ人であった、と考えるのが無難でありましょう。預言書や諸書でさんざん悩まされてきた<真相は藪のなか>とは、本書に於いても適応される表現であります。
 実を申せば4つある福音書のなかで著者を特定できるのは「ルカによる福音書」のみであり、その著者は外題になり、また「使徒言行録」を書いたルカでありますが、これについては「ルカによる福音書」や「使徒言行録」のところで改めて触れることに致しましょう。
 本書はパレスティナ以外のシナゴーグ(会堂)のある町で書かれた、とされます。著者がパレスティナの事情や地理に詳しくない点を挙げての説ですが、その他の根拠と併せて今日では特に、シリアのアンティオキア(セレコウス朝シリアの首都として「マカバイ記」に出て来ましたね)での成立を有力視しているようであります。しかし、確実な証拠は(例によって)なきに等しいのでした。
 成立年代についていえば、「マルコによる福音書」が第1次ユダヤ戦争によってエルサレムが陥落した後70年から数年間とされますので、「マタイによる福音書」も当然それ以後の、遅くとも後80年代初頭にはいま見る形で書きあげられて存在していたであろう。そう考えられております。
 なお、ヴァルター・クライバー曰く、著者は当時ユダヤ教の会堂から分離したユダヤ人キリスト者の教会のためにこれ即ち「マタイによる福音書」を書いた、と(『聖書ガイドブック』P229 教文館)。
 ──本書「マタイによる福音書」は旧約聖書と新約聖書をつなぐ書物であります。聖書を正直に、旧約聖書の最初から1冊ずつ愚直に読破してきた者にとって、他3つの福音書とは較べるべくもなく旧約聖書の連続性がはっきりわかる書物が「マタイによる福音書」であります。一個の独立した新しい書物というよりは、旧約聖書の続き乃至は後日譚的読み物としての性格も強く感じられます。いうてみれば──旧約聖書との連続性という点は、読み手に敷居の低さを実感させるのであります。「マタイによる福音書」を新約聖書のトップに据える決断を下した者に幸あれ。その勇断に、拍手。
 加えていうと、「マタイによる福音書」は他の福音書に較べてイエスの言行録としてもっともまとまりの良いものであります。そうして、ドラマティック。一つの読み物、一個の文学として優れている。新約聖書の巻頭に据えられたる理由は、そんなところにも求められましょう。本書の実際の著者が誰であれ、相応に教養と文才のある人物である、と見受けました。
 それでは明日から1日1章の原則で、「マタイによる福音書」を読んでゆきましょう。◆

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