第1849日目 〈阪神・淡路大震災を振り返る。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 1日遅れになってしまうが、どうしても20年前の出来事についての言葉の方が先に出てきてしまう。為、初めてのFacebook連動エッセイとして、阪神・淡路大震災について文章をお披露目させていただく(改訂済み)。
 明日から何事もなかったように、「マタイによる福音書」に戻りますのでご寛恕いただきたい。

 その出来事は、他人事ではありませんでした。
 幼い頃、わたくしは約半年、兵庫県西宮市に住んでいました。流石に殆ど記憶はありませんが、幸福だったと思います。
 兄はそれより何年も前に神戸で生まれました。その後、首都圏に帰りましたが、すぐにまた父の仕事の都合で兵庫に移りました。わたくしの覚えている西日本─兵庫─神戸・西宮なんて幼稚園児の半年だけですが、兄にとっては生まれ故郷であり、自分が育った場所でもありました。
 阪神・淡路大震災で、兄や両親の知っていた場所は根こそぎ破壊され、奪われてしまいました。あのときでも、兄や両親の知った人の多くは住み続けていたはずです。消息はわかりません。
 ただ、復興が落ち着いた頃、兄は一人で神戸・西宮に旅行しました。当時の面影はどこにも残っていなかったそうです。街そのものが変貌してしまった。知った街ではなくなっていた、と言っていました。
 20年が経ち、阪神・淡路大震災の被災経験や教訓が改めて語られ直しています。この国を襲った未曾有の災害は、決して東日本大震災だけではないことを、思い出しておきたい。
 東日本大震災が起こった際、一部の阪神・淡路大震災の被災者は憤ったそうです。国を挙げての復興支援、自粛ムードといった、被災地に向けられたあらゆる支援活動の数々に。
 過去に出会った被災者たちが異口同音に話してくれました、「自分たちの時には一地方の出来事のように忘れられていったのに、今度の長く続く支援ムードはなんなのか」と。「首都圏にも影響が出たから国家規模で支援の輪が広がっていったのか」、「原発事故が併せて起こらなかったら、被災地以外の人々がここまで復興支援を行うことがあったのか」とも。
 ──正直なところ、わたくしはかれらの言葉に頷くところが多くあります。しかし、それについてコメントする能力はありません。情報の伝達スピードと環境が異なるゆえに、被災者たちが感じる<扱い>の温度差が生じてしまったのはやむないこと、と思うからです。
 が、節目の年とはいえ、こうして被災記録がインターネット上で取り挙げられて風化を防ぐ作業が為されていることは、とてもうれしい限りです。
 この<1.17>は、<3.11>と<9.11>と同様、過去四半世紀に起こった忘れられぬ事件。
 1995年1月17日未明の地震に触れた記事を、「GIGAZINE」というニュース・サイトで見掛けたことが(http://gigazine.net/news/20150117-hanshin-awaji-earthquake-photo/)、本稿の執筆動機。加えて、自分自身への戒めとして、本稿の筆を執りました。
 <1.17>も<3.11>も等しくこの国を見舞った災禍、視点を変えれば自然界からの報復であることに変わりはありません、失われた命、失われた場所についても差異のあるところではない。これらの出来事を経験して紡がれ続ける歴史を、いまわれらは生きているのだ、ということを心にしっかり刻んでおきたい。
 最後に、阪神・淡路大震災を経験した若者の短歌を2首、引きます。

 駆けつける友の住まいは崩れ落ち生き埋めの友に我は無力(坂居保)156

 震災で止まった時間今日からは変えて見せるぞ名に恥じぬよう(西山由樹)170

 ──いずれも、南悟『生きてゆくための短歌』(岩波ジュニア新書)からです。詠み人のあとの番号はページ数です。◆

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