第1858日目 〈マタイによる福音書第12章:〈安息日に麦の穂を摘む〉、〈手の萎えた人をいやす〉他withあの国へもう一度!〉 [マタイによる福音書]
マタイによる福音書第12章です。
マタ12:1-8〈安息日に麦の穂を摘む〉
或る日、イエスは弟子たちと麦畑を通った。弟子たちは空腹を覚えていたので、思わず麦の穂を摘んで食べた。その日はちょうど安息日であった。
この様子をファリサイ派の人々が見咎めた。そうしてイエスに訴えた、あなたの弟子たちは安息日に禁じられたことをしている、と。
これにイエスは答えた。ダビデさえ祭司以外の物は食べてならぬ、とされた供え物のパンを食べたではないか(サム上21:27、レビ24:5-9)。安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破っても構わない、と律法にあるのを読んだことがないのか(民23:9-10)。
ファリサイ派の人々よ、預言書にある「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(ホセ6:6)という言葉の意味を知れ。そうすればあなた方が罪なき人々を咎めることもなかったであろう。人の子は安息日の主である。
マタ12:9-14〈手の萎えた人をいやす〉
イエスは会堂にて片手の萎えた人に会った。その場にいた人々は律法破りの罪でかれを訴えようと企み、安息日に病人を癒やすのは律法で許されているのかなぁ、と訊ねた。
その意地悪な質問にイエスは首肯した。「安息日に善いことをするのは許されている。」(マタ12:12)
──ファリサイ派の人々は会堂の外へ出て、どのようにしてイエスを殺してやろうか、と相談し合った。
マタ12:15-21〈神が選んだ僕〉
ファリサイ派の計画を知ったイエスはその町を去った。大勢の群衆がかれに従って動いた。
イエスは人々の病気を癒やして歩いたが、併せてくれぐれも自分のことを言い広めぬように、と釘を刺した。これは預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ42:1-4)。
マタ12:22-32〈ベルゼブル論争〉
悪霊に取り憑かれて目が見えず口も利けない人がイエスのところへ運びこまれた。イエスはこの人を癒やした。するとこの人は目が見えるようになり、口も利けるようになったのである。
ファリサイ派の人々はこの様子を見て、イエスを指して、悪霊の頭ベルゼブルの力によって此奴は人の体から悪霊を追い出したのだ、といった。イエスはいった、──
どんな国でも町でも内輪で争えば、荒れ果てて機能しなくなる。わたしがベルゼブルの力で取り憑かれた人の体から悪霊を追い出すのなら、いったいあなた方はどのような力で同じことを行うのか。覚えておけ、人々があなた方の裁き手となる。
が、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタ12:28)わが味方はわが敵なり。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタ12:31-32)
マタ12:33-37〈木とその実〉
良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。木の本質は実によって表される。蝮の子らよ、お前たちは悪い人間だ、どうしてその口から良いことが語られようか。「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。」(マタ12:34)
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタ12:36-37)
マタ12:38-42〈人々はしるしを欲しがる〉
数人の律法学者とファリサイ派の人々が来て、イエスにいった。先生、しるしを見せてくださいよ。
邪で神に反逆する時代の者たちはしるしを欲しがるが、とイエスはいった。しるしはかつて預言者ヨナに与えられたもの以外には与えられない。裁きの日、ニネベの人々はいまの時代の者らと共に立ちあがり、かれらを罪に定めるだろう。ヨナの説教によってニネベの人々は悔い改めたからである。
マタ12:43-45〈汚れた霊が戻ってくる〉
人から出て行った汚れた霊は遠近を彷徨い、落ち着く場所を見出せなかったので元いた人のところへ戻ってくる。そこが清潔にされていると、霊は自分よりも悪い霊を7人連れてきて、そこへ居坐る。それゆえ、その人は以前よりも悪い者となる。
邪で神に反逆する時代の者たちも、同じようになるだろう。
マタ12:46-50〈イエスの母、兄弟〉
──イエスの母と兄弟がイエスの許を訪ねてきた。話したいことがある、ということだった。が、折悪しくそのときイエスは説教中だった。そこで母たちは外でイエスを待った。
説教が終わったイエスにある人が近附いて、母君とご兄弟が来ておられます、と伝えた。するとイエスは、母とは誰か、兄弟とは誰か、と問うた。
そうしてイエスは弟子たちを指して、見よ、ここにわが母、わが兄弟がいる、といった。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ12:50)
ファリサイ派との対立がいよいよ表面化する。かれらとの論争に於いてイエスは聖書の引用を行う場合、典拠とするのは専ら律法である、という。それはおそらくファリサイ派が律法主義のグループだからだろう。かれらが精通するはずの律法を引用、解釈してみせることで、かれらの一知半解を笑うたのか。いずれにせよ、イエスの目にファリサイ派は論語ならぬ「律法知らずの律法読み」と映っていたことであろう。
説教中のイエスを母と兄弟が訪ねてくる。ここでいうむしろ親類縁者を指す由。そうしてまさにこの場面で再びイエスの行動理念が絶後の台詞を生む(マタ12:48-50)。わたしイエスよりも自分の肉親を愛する者はわたしに相応しくない(マタ10:37)。イエスはこの場面にてそれを実践した……。
本日の旧約聖書はマタ12:7とホセ6:6、マタ12:18-21とイザ42:1-4。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』」(マタ12:7)
これの典拠は、
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ6:6)
「見よ、わたしの選んだ僕。/わたしの心に適った愛する者。/この僕にわたしの霊を授ける。/彼は異邦人に正義を知らせる。/彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。/正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。/異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタ12:18-21)
これの典拠は、
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4)
是非いちど、ブリテン島最南端から最北端まで、最東端から最西端まで旅をして、電車でゆるゆるロンドンから北上してゆき湖水地方を眺めスコットランドに入り、そのままアイルランドやスカイ諸島などをじっくり回ってみたいと企んでいるのだ。
目的は勿論、地味に美味いイギリス料理(一括りにイギリス料理と称すのもやや後ろめたいけれど)を食べまくり、ビールとウィスキーを胃袋に流しこみ、再びの聖地巡礼;ハワース再訪を果たし、あれやこれやして、霧のロッホ・ネスとロッホ・ローモンドをもう一度この目で見たい、ということ。
うむ、このためにももう少し生きねばならぬ、と思うのだ。連れ? いるわけないだろ、そんな者。◆
マタ12:1-8〈安息日に麦の穂を摘む〉
或る日、イエスは弟子たちと麦畑を通った。弟子たちは空腹を覚えていたので、思わず麦の穂を摘んで食べた。その日はちょうど安息日であった。
この様子をファリサイ派の人々が見咎めた。そうしてイエスに訴えた、あなたの弟子たちは安息日に禁じられたことをしている、と。
これにイエスは答えた。ダビデさえ祭司以外の物は食べてならぬ、とされた供え物のパンを食べたではないか(サム上21:27、レビ24:5-9)。安息日に神殿にいる祭司は安息日の掟を破っても構わない、と律法にあるのを読んだことがないのか(民23:9-10)。
ファリサイ派の人々よ、預言書にある「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」(ホセ6:6)という言葉の意味を知れ。そうすればあなた方が罪なき人々を咎めることもなかったであろう。人の子は安息日の主である。
マタ12:9-14〈手の萎えた人をいやす〉
イエスは会堂にて片手の萎えた人に会った。その場にいた人々は律法破りの罪でかれを訴えようと企み、安息日に病人を癒やすのは律法で許されているのかなぁ、と訊ねた。
その意地悪な質問にイエスは首肯した。「安息日に善いことをするのは許されている。」(マタ12:12)
──ファリサイ派の人々は会堂の外へ出て、どのようにしてイエスを殺してやろうか、と相談し合った。
マタ12:15-21〈神が選んだ僕〉
ファリサイ派の計画を知ったイエスはその町を去った。大勢の群衆がかれに従って動いた。
イエスは人々の病気を癒やして歩いたが、併せてくれぐれも自分のことを言い広めぬように、と釘を刺した。これは預言者イザヤを通して語られたことの実現である(イザ42:1-4)。
マタ12:22-32〈ベルゼブル論争〉
悪霊に取り憑かれて目が見えず口も利けない人がイエスのところへ運びこまれた。イエスはこの人を癒やした。するとこの人は目が見えるようになり、口も利けるようになったのである。
ファリサイ派の人々はこの様子を見て、イエスを指して、悪霊の頭ベルゼブルの力によって此奴は人の体から悪霊を追い出したのだ、といった。イエスはいった、──
どんな国でも町でも内輪で争えば、荒れ果てて機能しなくなる。わたしがベルゼブルの力で取り憑かれた人の体から悪霊を追い出すのなら、いったいあなた方はどのような力で同じことを行うのか。覚えておけ、人々があなた方の裁き手となる。
が、「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ。」(マタ12:28)わが味方はわが敵なり。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」(マタ12:31-32)
マタ12:33-37〈木とその実〉
良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。木の本質は実によって表される。蝮の子らよ、お前たちは悪い人間だ、どうしてその口から良いことが語られようか。「人の口からは、心にあふれていることが出てくるのである。」(マタ12:34)
「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる。」(マタ12:36-37)
マタ12:38-42〈人々はしるしを欲しがる〉
数人の律法学者とファリサイ派の人々が来て、イエスにいった。先生、しるしを見せてくださいよ。
邪で神に反逆する時代の者たちはしるしを欲しがるが、とイエスはいった。しるしはかつて預言者ヨナに与えられたもの以外には与えられない。裁きの日、ニネベの人々はいまの時代の者らと共に立ちあがり、かれらを罪に定めるだろう。ヨナの説教によってニネベの人々は悔い改めたからである。
マタ12:43-45〈汚れた霊が戻ってくる〉
人から出て行った汚れた霊は遠近を彷徨い、落ち着く場所を見出せなかったので元いた人のところへ戻ってくる。そこが清潔にされていると、霊は自分よりも悪い霊を7人連れてきて、そこへ居坐る。それゆえ、その人は以前よりも悪い者となる。
邪で神に反逆する時代の者たちも、同じようになるだろう。
マタ12:46-50〈イエスの母、兄弟〉
──イエスの母と兄弟がイエスの許を訪ねてきた。話したいことがある、ということだった。が、折悪しくそのときイエスは説教中だった。そこで母たちは外でイエスを待った。
説教が終わったイエスにある人が近附いて、母君とご兄弟が来ておられます、と伝えた。するとイエスは、母とは誰か、兄弟とは誰か、と問うた。
そうしてイエスは弟子たちを指して、見よ、ここにわが母、わが兄弟がいる、といった。「だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。」(マタ12:50)
ファリサイ派との対立がいよいよ表面化する。かれらとの論争に於いてイエスは聖書の引用を行う場合、典拠とするのは専ら律法である、という。それはおそらくファリサイ派が律法主義のグループだからだろう。かれらが精通するはずの律法を引用、解釈してみせることで、かれらの一知半解を笑うたのか。いずれにせよ、イエスの目にファリサイ派は論語ならぬ「律法知らずの律法読み」と映っていたことであろう。
説教中のイエスを母と兄弟が訪ねてくる。ここでいうむしろ親類縁者を指す由。そうしてまさにこの場面で再びイエスの行動理念が絶後の台詞を生む(マタ12:48-50)。わたしイエスよりも自分の肉親を愛する者はわたしに相応しくない(マタ10:37)。イエスはこの場面にてそれを実践した……。
本日の旧約聖書はマタ12:7とホセ6:6、マタ12:18-21とイザ42:1-4。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』」(マタ12:7)
これの典拠は、
「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセ6:6)
「見よ、わたしの選んだ僕。/わたしの心に適った愛する者。/この僕にわたしの霊を授ける。/彼は異邦人に正義を知らせる。/彼は争わず、叫ばず、/その声を聞く者は大通りにはいない。/正義を勝利に導くまで、/彼は傷ついた葦を折らず、/くすぶる灯心を消さない。/異邦人は彼の名に望みをかける。」(マタ12:18-21)
これの典拠は、
「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。/わたしが選び、喜び迎える者を。/彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。/彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。/傷ついた葦を折ることなく/暗くなってゆく灯心を消すことなく/裁きを導き出して、確かなものとする。/暗くなることも、傷つき果てることもない/この地に裁きを置くときまでは。/島々は彼の教えを待ち望む。」(イザ42:1-4)
是非いちど、ブリテン島最南端から最北端まで、最東端から最西端まで旅をして、電車でゆるゆるロンドンから北上してゆき湖水地方を眺めスコットランドに入り、そのままアイルランドやスカイ諸島などをじっくり回ってみたいと企んでいるのだ。
目的は勿論、地味に美味いイギリス料理(一括りにイギリス料理と称すのもやや後ろめたいけれど)を食べまくり、ビールとウィスキーを胃袋に流しこみ、再びの聖地巡礼;ハワース再訪を果たし、あれやこれやして、霧のロッホ・ネスとロッホ・ローモンドをもう一度この目で見たい、ということ。
うむ、このためにももう少し生きねばならぬ、と思うのだ。連れ? いるわけないだろ、そんな者。◆