第1865日目 〈マタイによる福音書第19章:〈離縁について考える〉、〈子供を祝福する〉&〈金持ちの青年〉with明日からなにを読むか、真剣に悩んでいるんだ!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第19章です。

 マタ19:1-12〈離縁について考える〉
 これらのことを語り終えたイエスは、ガリラヤ地方を去り、ヨルダン川を渡ってユダヤ地方へ入った。
 ファリサイ派の人々がイエスに近附き、理由さえあれば夫が妻を離縁することは律法に適っているか、と訊いた。イエスはかれらに答えて曰く、あなた方は本当に律法を読んでいるのか、といった。そもその始めから創造主は男と女を造った。人は父母から離れて女を妻とし、もはや別々ではなく1つの存在となる。「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」(マタ19:6)
 続けてファリサイ派の人々が、ではどうしてモーセは離縁状を渡して離縁するように命じたのか、と訊いた。イエスはかれらに答えて曰く、あなた方の心がかたくなで最早どうしようもなかったからモーセは離縁を許したのだ、始めから夫婦の離縁を認めていたわけではない、と。「言っておくが、不法な結婚でもないのに妻を離縁して、他の女を妻にする者は、姦通の罪を犯すことになる。」(マタ19:9)
 このやりとりを聞いて弟子たちは、じゃあ結婚して妻を迎えたりしない方がマシですね、といった。イエスは答えて曰く、この言葉を受け入れるのは男女の縁に恵まれた者だけだ、と。続けて、──
 「結婚できないように生まれついた者、人から結婚できないようにされた者もいるが、天の国のために結婚しない者もいる。これを受け入れることのできる人は受け入れなさい。」(マタ19:12)

 マタ19:13-15〈子供を祝福する〉
 そのとき、祝福してもらおうと子供を連れた人々が来た。弟子たちはかれらを叱った。イエスはそれを諫め、いった。わたしの許へ来るのを妨げてはならない、天の国はかれら子供たちのものである、と。
 そうしてイエスは子供たちに手を置き、そこから去った。

 マタ19:16-30〈金持ちの青年〉
 或る青年がイエスに近寄って、永遠の命を得るためにはどんな善いことをすれば良いでしょうか、と聞いた。イエスは答えて曰く、わたしに善いことについて訊ねるな、善いことを教えられる方はただ一人である、と。命を得たくば掟を守れ。
 青年は、掟とはなんですか、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、隣人を自分の如く愛せ。
 青年は、それならもう既に行ってきました、それ以外にはなにがありますか、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 「もし完全になりたいなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」(マタ19:21)
 青年はこれを聞くと、悲しみながらその場を去った。かれはたくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちにいった。金持ちが天の国に入ることは難しい、らくだが針の穴を通る方がまだ易しいだろう。
 ならばいったい誰が救われるというのだろ、と弟子たちが驚いた。イエスはいった。それは人間にはできないが、神は何でもできる。
 ペトロがイエスに、なにもかも捨ててあなたに従うわれらはなにがいただけるのでしょう、と訊いた。イエスは答えて曰く、──
 「はっきり言っておく。新しい世界になり、人の子が栄光の座に座るとき、あなたがたも、わたしに従って来たのだから、十二の座に座ってイスラエルの十二部族を治めることになる。わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子供、畑を捨てた者は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」(マタ19:28-30)

 結婚と富について考える。
 「神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」とは、これ以上になにをも求めるべくのない真実である。既に夫婦である者、これから夫婦となる者は、この言葉の意味するところをよくよく噛みしめて心に刻み、首肯して従うべきであろう。が、一部の定められた者は婚姻そのものを諦めてその事実をありのままに受け入れよ、ともいう──なによりも天の国に仕える者は。カトリックの神父の独身なるべし、というはここを根拠とするか。結婚にまつわる本挿話を読む際、これの延長線上にあるものとして、たとえば「コリントの信徒への手紙」第7章や第12章第31節b-第13章第13節、また、「エフェソの信徒への手紙」第5章第21-33節を併読してみるとよい。
 富についても、わたくしは多くを語らぬこととする。ただ、イエスの前から悄然として去って行く青年の後ろ姿に感じるところはある。かれのこの後ろ姿は読者に、持っているものに対するしがらみを捨てることが難しいことを伝えている。これは単に財産、貯金への執着や未練というばかりではない。持っているものを手放すことは難しく、とても勇気が要る行為なのだ……。よくわかる。この場合に限っていえば、<必要なのにないよりも、あるのに必要ない方がいい>というのは戯言の極みである。こんなとき、実践すべきは本多博士の蓄財術ではなく、断捨離なのだ。

 本日の旧約聖書はマタ19:7と申24:1、マタ19:18-19と出20:12-16、申5:16-20、レビ19:18。
 「では、なぜモーセは、離縁状を渡して離縁するように命じたのですか。」(マタ19:7)
 これの典拠は、
 「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。」(申24:1)

 「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタ19:18-19)
 これの典拠は、
 「あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。」(出20:12-16)
 「あなたの父母を敬え。あなたの神、主が命じられたとおりに。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生き、幸いを得る。殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。隣人に関して偽証してはならない。」(申5:16-20)
 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」(レビ19:18)



 じゅうぶんに堪能しながら、スティーヴン・キングの短編集『骸骨乗組員』(サンケイ文庫)を読了。やはり「霧」は読み応えのある作品だ。フランク・ダラボン監督による映画『ミスト』は結末について特に賛否を浴びたが、じつは原作のなかにダラボンのイマジネーションに火を付けたであろう、映画の結末を是とさせる一文があるのを見出して、思わず感嘆と称賛の溜め息をついてしまったことを、ここで告白させていただく。
 『骸骨乗組員』を読み終えた今日からはなにを読もうか、と昨日の晩からいろいろ考えていたのだが、なにを書架から出してリュックに放りこんだのか、いっこう覚えていない。楽しみ半分で今朝の電車のなかでリュックを探ってみたところ、なんと、キングの短編集がそのまま入っていた! 自分自身にツッコミを入れながら、「カインの末裔」を読みましたよ。
 そこで明日からはなにを読もうか、と真剣に考えねばならぬのだけれど、迷っている。途中になっている<村上春樹読書マラソン>を再開させるか、或いは、ドストエフスキー『未成年』と『カラマーゾフの兄弟』を読んでしまうか、と考えるも答えは出ない。読書についていえばあんがい優柔不断なんだな、とわがことながら感心している。前者についていえば、残るは一部の紀行とノンフィクションなので、ちょっと手を伸ばすのも躊躇っている、というのが本音。
 さて、いったい明日からの読書はどうなるんでしょうね。勿論、まったく別の本を読んでいる可能性だって否定はできない。えへ。◆

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