第1873日目 〈マタイによる福音書第26章2/2:〈ゲツセマネで祈る〉、〈裏切られ、逮捕される〉他withなんたる失態!〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第26章2/2です。

 マタ26:36-46〈ゲツセマネで祈る〉
 そのあと、イエスと弟子たちはエルサレムの東側、オリーブ山の西麓にあるゲツセマネに行った。ペトロと、ゼベダイの子ら即ちヤコブとヨハネ兄弟だけを連れて、イエスは残りの弟子たちから離れた。と、かれは突然悲しみ悶えた。イエスはペトロたちに、自分は死ぬ程悲しい、といった。ここを離れず、わたしと共に目を覚まして待っていなさい。
 イエスはペトロたちから少し離れた場所で、うつ伏せになって祈った。父よ、わたしからこの杯を過ぎ去らせてください。しかし、わが願いによってではなく、それが御旨なら。
 そうしてイエスが戻ってくると、果たしてペトロたちは眠っていた。イエスはかれらにいった。あなた方はわたしと一緒にいて、わずか一刻と雖も起きていることができなかったのか。「誘惑に負けぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(マタ26:41)
 が、このことは2度繰り返されたのである。3度目のとき、イエスはペトロたちへいった。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」(マタ26:45-46)

 マタ26:47-56〈裏切られ、逮捕される〉
 イスカリオテのユダが来た、イエスを捕縛する者たちを連れて。ユダは、俺が接吻する相手がイエスだ、それを合図にかれを捕まえろ、と示し合わせるとイエスの前に行き、接吻した。そのとき、イエスがユダへ掛けた言葉;「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタ26:50)
 剣や棒を持って、祭司長や民の長老たちと一緒に来た大勢の群衆がイエスを囲み、かれに手を掛けた。イエスの取り巻きの1人が剣を抜いて斬りかかり、群衆の1人の耳を切り落とした。イエスはその取り巻きの1人を諫め、捕縛者たちへいった。曰く、──
 わたしがお願いすれば、天の父は12軍団以上の天使をいますぐ送ってくれるだろう。が、わたしはそうしない。かならずこうなる、という聖書の言葉が実現しないからである。わたしは毎日神殿の境内で教えていたのに、あなた方はわたしを捕らえたりしなかった。なぜか。預言者たちが語っていたことが実現するようにである。
──と。
 弟子たちは皆、イエスを置いてあちこちへ逃げた。

 マタ26:57-68〈最高法院で裁判を受ける〉
 イエスは大祭司カイアファの許へ連行された。ペトロはカイアファの屋敷の中庭にひしめく群衆へ紛れこみ、イエスの裁判の様子を窺った。
 祭司長たちや最高法院の陪審員たちが、イエスの死刑を求めた。イエスに不利な偽証も様々にされた。が、証拠は得られなかった。この男は打ち壊した神殿を3日で再建してみせるといった、と更に偽証されて尚。その間、イエスは終始無言であった。イエスは沈黙したままだった。イエスは黙して口を開かなかった。
 大祭司カイアファがイエスに、生ける神に誓って答えよ、お前はメシアか、と問うた。すると、イエスは答えた。それはあなたのいったことだ。あなた方にわたしはいっておく、「あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ26:64)
 なんたる冒瀆! 神への冒瀆! カイアファは叫んだ。いま諸君はこの男の口から、冒瀆の言葉を聞いたであろう。これ以上の証拠はいらぬ。諸君はこの男をどう思うか。
 死刑だ! 人々は答えた。そうしてイエスに、寄ってたかって乱暴した。

 マタ26:69-75〈ペトロ、イエスを知らないと言う〉
 この様子を、ペトロはずっと中庭で見ていた。
 1人の女中がペトロを見咎めて、あなたもあのガリラヤのイエスと一緒にいた、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 中庭から門へ向かって歩くペトロを、他の女中が見咎めて、周囲の人々に、この男もあのガリラヤのイエスと一緒にいた、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 その場にいた人々が寄ってきて、お前もあの連中の仲間だ、言葉遣いですぐわかる、といった。否、とペトロ。わたしはあの男を知らない。
 そのとき、鶏が鳴いた。
 鶏が鳴く前、あなたは3度、わたしを知らない、という──ペトロはイエスの言葉を思い出し、門の外へ走って行って激しく泣いた。

 聖書の言葉が実現する、というマタ26:54はイザ53を踏まえた表現である。イザ53の小見出しは〈主の僕の苦難と死〉、一般に<苦難の下僕>と呼ばれる箇所だ。ここはまこと、イエス捕縛と裁判、そうして処刑を想起させる章だ。即ち、マタ26-27を預言したイザヤの言葉である。イザ53を丹念に読めば読む程、福音書に描かれるイエスの逮捕と死が、より切なるものと感じられることであろう。
 なお初期教会はこのイザ53を聖金曜日のテクストとして使った、と、ジークフリート・ヘルマンはいう(『聖書ガイドブック』P128 教文館)。
 イエスが捕縛されるゲツセマネは、おそらくはエルサレムやローマのような今日もニュースや観光ガイドで取り挙げられるものを除いて、エデンの園やバベルの塔、ソドムとゴモラ、エリコ、ナザレ、ベツレヘム、ガリラヤ、コリント、ハルマゲドンと並んで、聖書に馴染みのない者であっても聞いた覚えのある地名ではなかろうか、と思う。
 アラム語で「オリーブの油搾り」や「オリーブの酒舟」という意味のこの場所は、その名の通りオリーブの樹が群生する一種の庭園である。4つの福音書に共通して登場する場所で(まぁ当たり前ですわな)あり、逮捕前に祈りを捧げた場所、ユダの手引きによってやって来た人々に逮捕される場所として夙に有名であるが、ロシア正教会に於いては生神女マリア(聖母マリア)が埋葬された場所であるそう。カトリック教会の他に生神女マリアの教会「マリア・マグダレーナ教会」がここにあるのはそうした理由からである由。
 地図や衛星写真、各種ガイドに会っても付近で随一というていい程に豊かな緑を誇るこの園、信徒ならずとも一遍は出掛けてみたいものである。

 本日の旧約聖書はマタ26:63とイザ53:7、マタ26:64aと詩110:1、マタ26:64bとダニ7:13。
 「イエスは黙り続けておられた。」(マタ26:63)
 これの典拠は、
 「苦役を課せられて、かがみ込み/彼は口を開かなかった。/屠り場に引かれる小羊のように/毛を刈る者の前に物を言わない羊のように/彼は口を開かなかった。」(イザ53:7)

 「人の子が全能の神の右に座り、」(マタ26:64a)
 これの典拠は、
 「わたしの右の座に就くがよい。」(詩110:1)

 「天の雲に乗って来るのを見る。」(マタ26:64b)
 これの典拠は、
 「「人の子」のような者が天の雲に乗り」(ダニ7:13)



 本来なら今日からは3冊目のモレスキンで原稿を書くはずであった……。
 なのに、どうしたわけか新しいモレスキンをリュックに入れるのをすっかり忘れ、いつものスタバに来てから、さぁ原稿書こうかな、と取り出してみたら昨日まで使っていたものであったことにすっかり打ちひしがれて、仕方なくシフトやなにやら記入する年変わりの手帳の後ろの方のページに、本日の聖書読書ノート・ブログの原稿を認めたのであります。
 帰ったらすぐに新しいモレスキンをリュックに放りこまなくちゃ!◆

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