第1874日目 〈マタイによる福音書第27章:〈十字架につけられる〉、〈イエスの死〉他withドストエフスキー『虐げられた人びと』を読み始めました。〉 [マタイによる福音書]

 マタイによる福音書第27章です。

 マタ27:1-2〈ピラトに引き渡される〉
 祭司長たちや民の長老たちはイエス処刑の思惑で一致していた。かれらは捕縛したイエスを総督ポンティオ・ピラトへ引き渡した。

 マタ27:3-10〈ユダ、自殺する〉
 イスカリオテのユダは銀貨30枚でイエスを売り渡した。かれはイエスに有罪判決が下されたことで自分の罪の深さを知り、止み難き後悔の念から一度は受け取った報酬を返しに、祭司長たちや民の長老たちのところへ行った。が、それはお前の問題だ、と突っぱねられるばかり。怒ったユダは銀貨を神殿に投げこんだあと、そこから立ち去って首吊り自殺した。
 イスカリオテのユダは死んだ。祭司長たちや民の長老たちはユダの放り投げた銀貨を拾い集めて、これは血の代金であるから神殿の収入へ含めるわけにはいかない、といい、そのお金で陶器職人の畑を購入した。そこは購入資金の謂われゆえに外国人のための墓地となり、「血の畑」と呼ばれるようになった。

 マタ27:11-14〈ピラトから尋問される〉
 逮捕されたイエスはピラトの許へ連れてゆかれた。総督はイエスに、お前はユダヤ人の王なのか、と問うた。イエスはただ一言、答えただけで、他は沈黙したままだった。それはあなたのいっていることだ。自分に不利な証言が様々偽証されているのを聞いても黙ったままなイエスを見て、ピラトはふしぎなものを感じた。

 マタ27:15-26〈死刑の判決を受ける〉
 ところで総督は祭りのたび、恩赦として罪人の1人を釈放することにしていた。ここに2人の罪人がいる。バラバ・イエスと、ナザレのイエス即ちメシアと呼ばれるイエスだ。総督は民に、どちらを釈放すべきか、と問うた。
 実は民は、祭司長たちや民の長老たちから、メシアと呼ばれるイエスを十字架へ掛けるよう根回しされていた。為、民はピラトの問いに、メシアと呼ばれるイエスだ、と答えるのだった。総督はナザレのイエスの処刑を求める声が大きいのは、祭司長たちや民の長老たち、そうして民の妬みに理由するものだとわかっていた。
 一方、イエス裁判の場にいるピラトのところへ、妻からの伝言が届けられた。曰く、「あの正しい人に関係しないでください。その人のことで、わたしは昨夜、夢でだいぶ苦しめられました」(マタ27:19)と。
 総督ピラトはイエスの刑を軽減しようと努めた。かれが罪人とは到底思えなかったからである。かれは最後までイエスの処刑に反対し、民や祭司長たち、民の長老たちの説得にあたったが、努力は水泡に帰した。イエスがどのような悪事を働いたというのか、とピラトが問うても、民は、イエスを十字架に掛けろ、と叫ぶばかりである。
 もうこれ以上はなにをいっても無駄だ、と総督は思った。これ以上自分が説得を続けるならば、自分の地位さえ危うくなる、と判断した。そこでピラトは、「水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。『この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。』民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある。』」(マタ27:24-25)
 ピラトはバラバを釈放、イエスを鞭打ちし、磔刑に処すため引き渡した。

 マタ27:27-31〈兵士から侮辱される〉
 総督の兵士たちは総督官邸にイエスを連れていった。集められた兵士全員の前でイエスは、着物を剥ぎ取られて赤い外套を着せられ、茨で編んだ冠を頭に載せられ、右手に葦の棒を持たせた。そうしてかれらはイエスの前にからかうようにひざまずき、ユダヤの王様ばんざい、といって侮辱したのである。かれらはイエスの顔に唾を吐き、葦の棒で頭を打って乱暴した。

 マタ27:32-45〈十字架につけられる〉
 イエスは処刑の場、即ちエルサレム郊外のゴルゴタの丘へ引き立てられていった。かれの頭の上には、これはユダヤ人の王イエスである、と書いた罪状が掲げられている。たまたまその場に居合わせたキレネ人シモンはイエス磔刑用の十字架を背負わされて、共にその道を行った。イエスは苦汁を混ぜたぶどう酒を飲まされそうになったが、舐めただけで飲みはしなかった。
 そうしてイエスはゴルゴタの丘へ到着した。人々はかれを揶揄し、中傷し、嘲った。その日一緒に磔刑に処せられていた2人の罪人も、同じようにイエスを罵った。ゴルゴタの丘にイエスを擁護する言葉はなかった。

 マタ27:46-56〈イエスの死〉
 昼12時頃、全地は暗くなり、午後3時頃まで暗闇がエルサレム上空を覆った。その3時頃である。イエスは天を仰ぎ、大声で叫んだ。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。父よ、なぜわたしを見捨てたのですか。
 その場にいた人々は、きっとイエスがエリヤを呼んでいるのだと思い、エリヤが助けに来るか見ていよう、と囁いて、十字架状のイエスを見物していた。また、群衆の1人がイエスに駆け寄って、酸いぶどう酒を海綿に含ませてイエスに飲ませようとした。それは麻酔効果を持つものであった。が、イエスはそれを口にしなかった。
 イエスは再び天を仰ぎ、大声で叫び、そうして死んだ。
 「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。」(マタ27:51-53)
 これらの出来事を目の当たりにした百人隊長やイエスの見張りをしていた人たちは、この人こそ本当に神の子であった、と胸潰される想いで呟いた。
 絶命したイエスを、遠くから見守る女性たちがいた。イエスがガリラヤからユダヤ、そうしてエルサレムへ下ってくる際一緒にいて、かれの世話をした女性たちである。マグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子らの母も、そのなかにいた。

 マタ27:57-61〈墓に葬られる〉
 夕方になった。イエスの弟子でアリタマヤ出身の金持ちヨセフが総督ピラトに、イエスの遺体を引き取る許可を願い出た。ピラトは許可した。ヨセフはイエスを綺麗な亜麻布で包み、自分用に掘ってあった新しい墓に埋葬すると、入り口に大きな石を転がして封をした。
 マグダラのマリアともう1人のマリアはそこに残り、墓の方を向いて坐っていた。

 マタ27:62-66〈番兵、墓を見張る〉
 翌る日、祭司長たちとファリサイ派の人々はピラトのところへ行き、イエスの墓を監視させてくれるよう頼んだ。イエスは3日後に復活するといいました、きっと弟子たちがこっそりかれの遺体を運び出して師が復活したと騒ぐのでしょう、そうなれば民の動揺は以前にも増して深刻なものになります、だからわれらにイエスの墓を監視させてください、かれの弟子たちの工作が行われないように、といって。
 総督は、お前たちの番兵にそれを任せよ、といった。かれらはそうした。

 ダイジェストのつもりで始めたノートはもはや当初の目的を失って幾年。今回も自分の言葉、自分の表現に置き換えたが精々の再話となった。もっとも、本章についていえば却ってそれでよかったか、と思うている。
 聖書以外の史料ではポンティオ・ピラト、相当の悪人物に描かれているそうだが、福音書ではなんとかしてイエスの刑を軽減或いは無罪にしようと努める理解ある人、として描かれている。イエスの死の責任はむしろ同胞ユダヤ人にある、とでもいうかのような書きぶりだ。これは共観福音書に見られる要素である。「ヨハネの福音書」のこの場面については正直、なんともいいかねるところだ。
 バラバ・イエスの逮捕理由について「マルコによる福音書」は都エルサレムで発生した暴動と殺人の容疑である、と伝える。
 イエス処刑の場になった、エルサレム郊外のゴルゴタの丘。「髑髏の場所」という意味を持つこの丘がどこであったか、今日ではほぼ聖墳墓教会のあるあたりというのが、一般的だ。ローマ帝国の賢帝、キリスト教を国教と定めたコンスタンティヌス帝の母ヘレーナが326年にエルサレムを訪れた折、イエスの聖遺物を発見したことを根拠にこの場所がゴルゴタの丘とされるようになり、聖墳墓教会が建立されたのだ、という。教会のなかにはイエスの墓所とされる聖堂がある。昨日のゲツセマネ同様、信徒ならずとも訪れてみたい場所だ。
 ゴルゴタの丘についてはもう1箇所、エルサレム北側の城壁にあるダマスコ門から出たところにある岩場、いわゆる「園の墓」と呼ばれる場所がそれである、ともいわれている。
 なお、金持ちのヨセフがイエスの遺体を包む際に使った綺麗な亜麻布。これが聖骸布である。

 本日の旧約聖書は、マタ27:9-10とゼカ11:11-13、マタ27:46と詩22:2。
 但し、マタ27:9-10についてはエレ18:2-3などの言葉とゼカ11:13を編集したものである由。
 「彼らは銀貨三十枚を取った。それは、値踏みされた者、すなわち、イスラエルの子らが値踏みした者の価である。主がわたしにお命じになったように、彼らはこの金で陶器職人の畑を買い取った。」(マタ27:9-10)
 これの典拠は、
 「その日に、それは無効にされた。わたしを見守ってきた羊の商人たちは、それが主の言葉であることを知った。わたしは彼らに言った。『もし、お前たちの目に良しとするなら、わたしに賃金を支払え。そうでなければ、支払わなくてもよい。』彼らは銀三十シェケルを量り、わたしに賃金としてくれた。主はわたしに言われた。『それを鋳物師に投げ与えよ。わたしが彼らによって値をつけられた見事な金額を。』わたしはその銀三十シェケルを取って、主の神殿で鋳物師に投げ与えた。」(ゼカ11:11-13)

 「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタ27:46)
 これの典拠は、
 「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。/なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。」(詩22:2)



 昨日からドストエフスキー『虐げられた人びと』(新潮文庫)を読み始めました。まだ第4章を読み終わったところですが、このロシアの文豪による長編小説を読むときの感覚がだんだんと戻ってきた。
 やっぱりドストエフスキーは面白い! その圧倒的質量に人はタジタジとなってしまうが、いちど馴染むとこれ程取っつきやすく、愉悦にあふれた、時間を忘れるような小説を残してくれたロシアの作家も、あまりいないように思う。ソ連以前に絞れば……チェーホフとプーシキンぐらいかなぁ、自分にとっては。トルストイは肌に馴染まぬ。
 どうしてこんな小説が書けるんだろう。◆

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