第1950日目 〈ルカによる福音書第10章:〈七十二人を派遣する〉、〈善いサマリア人〉withカフカの小説、旅行ガイドに化ける。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第10章です。

 ルカ10:1-12〈七十二人を派遣する〉
 その後、イエスは他に72人を選び、2人1組にして自分が行くつもりだった村や町に派遣した。
 収穫は多いが、とイエスはかれらにいった。収穫は多いが働き手は少ない。収穫のために働き手を送ってくれるよう収穫の主に祈れ。町に入って迎え入れられたら家から家に渡り歩くことなく、その村や町の人々のために癒やしの業を行いなさい。迎え入れられなかったら、足の裏の埃を払い落としていいなさい、神の国が近附いたことを知れ、と。「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」(ルカ10:12)

 ルカ10:13-16〈悔い改めない町を叱る〉
 コラジン。ベトサイダ。不幸な町よ。裁きの時にはティルスやシドンの方が軽い罰で済む。
 カファルナウム。喜ぶな。お前は天に引き上げられたりしない、陰府の底へ落とされるのだ。
 ──
 イエスは新たに遣わす72人にいった、「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである。」(ルカ10:16)

 ルカ10:17-20〈七十二人、帰って来る〉
 72人は行って仕事を成し遂げ、帰ってきて報告した。そんなかれらにイエスはいった、──「悪霊があなたがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」(ルカ10:20)

 ルカ1:21-24〈喜びにあふれる〉
 聖霊に満たされ、喜びにあふれたイエスは天の父を讃えた。
 「すべてのことは、父からわたしに任されています。父のほかに子がどういう者であるかを知る者はなく、父がどういう方であるかを知る者は、人の子と、子が示そうと思う者のほかには、だれもいません。」(ルカ10:22)
 そうして、弟子たちにいった、──
 「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ。言っておくが、多くの預言者や王たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」(ルカ10:23-24)

 ルカ10:25-37〈善いサマリア人〉
 どのようにしたら永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか、と質問した1人の律法学者がいた。イエスと律法学者は斯く対話した、──
 イエス:律法にはどのように書いてあるか、あなたはそれをどう読むか。
 律法学者:律法にはこう書いてあります、「心を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。隣人を自分のように愛しなさい」(ルカ10:27)と。
 イエス:あなたの答えは正しい。それを実行すれば、命が得られる。
 律法学者:では、わたしの隣人とはだれですか。
 イエス:或る人がエルサレムからエリコへ行く折、追い剥ぎに襲われてしまった。服も着物も奪われ、怪我を負わされたかれは、道の真ん中で倒れた。そのあと、3人の人物が底を通り掛かった。1人目の祭司と2人目のレビ人は関わり合いになるのが嫌で、知らんぷりしてその場を行き過ぎた。
 3人目のサマリア人は見過ごすことができず、またその旅人に憐れを感じて、傷の手当てをした。そうして街道沿いの宿屋へその怪我人を預けると、そこの宿の主人にこういった。デナリオン硬貨2枚を治療費として渡します、旅の帰りにまた寄りますから、足りない分があったらそのとき支払います。
 では律法の専門家よ、訊こう。祭司、レビ人、サマリア人、この3人のうちで誰が襲われた人の隣人たり得るか。
 律法学者:3人目のサマリア人です、先生。
 イエス:そうだ。では行って、あなたも善きサマリア人と同じようになさい。

 ルカ10:38-42〈マルタとマリア〉
 或る家にマルタとマリアという姉妹がいた。マリアが主イエスの足許に坐って話しを聞いている様子に、マリアは憤慨した。というのも、彼女だけが歓迎の宴の準備に忙しくしていて、マリアは手伝う様子もなかったからである。
 マルタがイエスに、これを見てあなたはなんとも思わないのですか、早くマリアに手伝うよういってください、と請うた。イエスは答えて曰く、──
 「マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:41-42)

 本章の第一稿を書いた日からMBAにて浄書した今日まで、10日の間隔が開いている。最初は意味のわからなかったことでもこれだけ間が開けば、どうしてこんなことに気が付かなかったのか、と小首を傾げてしまう事態に遭遇することはなにも今回が初めてのことではない。
 収穫とか働き手とか、収穫の主とか、いったいそれはなんのことだ。読んでモレスキンにノートしていたときはそこまで考えを巡らすことができなかった。ほら、春は怠惰の季節だからさ、灰色の脳細胞へ新鮮な空気が送りこまれていなかったのですよ、わが親愛なるヘイスティングス大尉。では、いまはどうなんです?
 ばっちりだ。
 要するに、「収穫が多い」とは「教えを受け入れて悔い改める者が増える(信徒が増加する)」ことであり、「働き手」とは「宣教者」即ちイエスにとっては弟子たちであった。そうして「収穫のために働き手を送ってくれるよう収穫の主に祈れ」とは、「イエスの教えに帰依して宣教に務める者が増えること(=神の国の福音を宣べ伝える者が全土に散ってそれが浸透すること)を神に祈れ」というのだ。小さな気附きである。キリスト者や、読書しながらダイレクトにすべての理解が進められる者には苦笑されてしまうだろう。だが、読書を繰り返すことによって、歩みは遅々としながらも着実に理解を深めてゆけることの方が、わたくしには大事だ。どうかこのような者がいることを知り、受容できる読者諸兄であることを祈りたい。
 本章は<善きサマリア人>を含むが、わたくしにはこれよりもその直前に置かれたルカ10:21-24〈喜びにあふれる〉の方が心に残る。殊、引用もしたルカ10:23-24ゆえに。
 自分が見ているものを見たくても見られなかった者がいる、自分の聞いていることを聞きたくても聞けなかった者がいる。こんな明快な事実に、わたくしは泣いたのである。比喩や誇張ではない。
 悔恨の情がある。わたくしは家族を守って死んだ父に、嫁を見せることも孫を見せることもできなかった。父に孫を抱かせることもできなかった。いまこうして仕事をがんばっている姿を見せることもできなかった。いろいろ思い悩んで躓いたり、未来と現在に迷いを持つこともあるけれど、こうして生きている姿を見せることができなかった。悲しませることもあり、嘆かせたこともあり、苦労をかけさせてしまったこともある。たくさん、たくさん。それを謝り、以前より少しでも憂いのない生活をしてもらう手助けをしたかった。でも、それはもうできないのだ。自分がこれから旅先や日常で見る風景を一緒に見たり、それを教えることもできない。聞いたことを教えたり、それによって世界をわずかでも広げてもらうこともできない。──そんな悔恨が「ルカによる福音書」の件の文章に接して浮上したのであった。
 ルカ10:38-42に出るマルタとマリア姉妹。彼女たちの住む村がベタニアであれば、ヨハ11:1に基づき彼女たちはラザロの姉妹ということになる。ラザロとはイエスによって土の下から復活した者である。が、それはまだ先のお話であるからいまはともかくとして、宴会の準備に1人大わらわになっているマルタにしてみれば、イエスのマリアをかばう言葉には「なにをいってるんだ、こいつ」状態であったことは想像に難くない。釈然としなかったであろう、それはそれ、これはこれだろう、と。
 どうにもイエスは神の国の福音を宣べ伝え、それを人々に浸透させてゆくことに気を奪われて、実生活については極めてアウトサイダー、人々の思いや社会が社会として動いてゆくために存在して営まれてきた<常識>や<礼儀>というものに極めて無頓着、悪くいえば社会規範の破壊者であるように、わが目には映ってならぬ。こんなこと、婚約者が生きていたらいえたかどうかわからないが、すくなくとも福音書を読むいまの自分にイエスはそのように映るのだ。ああ、傍にいてほしくないなぁ、こうした輩。

 本日の旧約聖書はルカ10:27と申6:4-5,レビ19:18。



 引き延ばして、<カフカ・コレクション>の話の続き、そうして、オチ。
 スターバックスの川縁に面したテラス席で原稿を書きあげた後、てくてくと川向こうの本屋へ行って欠けた巻を捜してみたが1冊しかなかった。もう1冊は、出版社のHPに拠れば品切れになっている様子。この事態に直面して、すくなくとも今回は<カフカ・コレクション>の欠巻を揃える気がなくなった。あーあ。
 でも、久しぶりに立ち寄った書店でもあることだから、と棚をゆっくり見て歩く。この時点では、特に欲しい本はなかった。否、欲しい本がないのではなく、あっても購入を検討する段階で「まぁ、いまは買わなくてもいいか」という気になってしまう。
 ……なのに、唐突に「これ買おう!」と思うてそのままレジへ運んだ本があったのだ。次の旅行でわたくしは奈良に行くのだが、それのガイドブックを買うことにしたのである。ガイドブックも一長一短でなかなか自分好みの1冊を見附けるのは難しいけれど、運が良かったのか或いはたまたま双方のベクトルが交差しただけなのか、ぴったりなものを見付けることができた。そのままレジへ持ってゆくことに、なんの躊躇いも迷いもなかった……。
 帰宅後、付箋をぺたぺた付けて、まだ情報の取捨選択はできていないけれど、以前よりも少しだけでも充実した奈良旅行にはできそうだ。現実から乖離した趣のカフカがまさか旅行ガイドに化けるとは思わなかったけれど、まぁこれもあらかじめ決められていた買い物なのだろう。ならば、よい。◆

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