第1946日目 〈ルカによる福音書第6章:〈安息日に麦の穂を摘む〉、〈手の萎えた人をいやす〉他withR.チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのは、……〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第6章です。

 ルカ6:1-5〈安息日に麦の穂を摘む〉
 イエスと弟子たちが或る安息日に麦の穂畑を歩いている。お腹を空かせた弟子たちが、麦の穂を摘み手で揉んで、食べた。それを見たファリサイ派の人々が、安息日なのに禁じられたことをするのはなぜか、と、かれらに問うた。イエスは答えて曰く、──
 サウル王に追われてエルサレムを逃れたダビデが、空腹のときに自分の家来を連れて、祭司以外は食べてはならぬとされる供え物のパンを食べたことを、あなた方は知らないのか。あなた方にいうておく、「人の子は安息日の主である」(ルカ6:5)と。

 ルカ6:6-11〈手の萎えた人をいやす〉
 別の安息日のことである。イエスは会堂で教えていた。そこに1人の右手が萎えた男が来て、聴衆のなかに混じった。男の姿を見たファリサイ派と律法学者たちは、この男に対してイエスがどう振る舞うかに注目した。
 イエスはかれらの考えを見抜き、手の萎えた人に、立ちなさい、と呼びかけた。そうしてファリサイ派と律法学者たちに訊ねた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(ルカ6:9)
 その後、イエスは手の萎えた人の側により、相手の手を取って癒やし、元通りにした。
 ファリサイ派と律法学者たちはこれを見て怒り狂い、どうにかしてイエスを排除しようと企んだ。

 ルカ6:12-16〈十二人を選ぶ〉
 イエスは山に行って神に祈り、夜を明かした。朝になってかれは降りてきて、弟子たちを呼んだ。イエスはそのなかから12人の弟子を特に選び、かれらを<使徒>と呼んだ。
 12弟子は以下のとおりである、──
 ・シモン・ペトロ
 ・その弟アンデレ
 ・ヤコブ
 ・その兄弟ヨハネ
 ・フィリポ
 ・バルトロマイ
 ・マタイ
 ・トマス
 ・アルファイの子ヤコブ
 ・熱心党のシモン
 ・ヤコブの子ユダ
 ・裏切り者イスカリオテのユダ

 ルカ6:17-19〈おびただしい病人をいやす〉
 山から下りてきたイエスをおびただしい数の群衆が取り囲んで、癒やしの業を求め、汚れた霊を追い払うことを求めた。かれらはユダヤ全土とエルサレムから、また地中海に程近い町ティルスやシドンといった沿岸地域から、皆、イエスを求めてやって来た。というのも、イエスの体から力が出て、すべての人の病気を癒やしたからである。

 ルカ6:20-26〈幸いと不幸〉
 イエスは目を挙げ、弟子たちに説いた。曰く、──
 貧しい人々は幸いである、神の国はあなた方のものである。
 いま飢えている人々は幸いである、あなた方は満たされる。
 いま泣いている人々は幸いである、あなた方は笑うようになる。
 「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。」(ルカ6:22-23)この人たちの先祖も預言者に対して同じようにしたのである。
 だが一方で、
 富んでいるあなた方は不幸である、もう慰めを受けているから。
 いま満腹の人々とあなた方は不幸である、あなた方は飢えるようになる。
 いま笑っている人々は不幸である、あなた方は悲しみ泣くことになる。
 「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。」(ルカ6:26)この人たちの先祖も預言者に対して同じようにしたのである。

 ルカ6:27-36〈敵を愛しなさい〉
 わたしの言葉を聞くあなた方にいう。
 「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。」(ルカ6:27-28)
 あなた方は敵を愛せ。自分を愛する者を愛したところで恵みがあろうか。自分に善くしてくれる人に善くしたところでどんな恵みがあるか。返してもらうことをあてにして貸したところでどんな恵みがあるだろう。
 「あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ6:35-36)

 ルカ6:37-42〈人を裁くな〉
 「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:37-38)
 「偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。」(ルカ6:42)然る後、兄弟の目のなかのおが屑を取り除け。

 ルカ6:43-45〈実によって木を知る〉
 良い木は悪い実を結ばない。悪い木が良い実を結ぶことはない。
 善い人は良いものを入れた心の倉から良いものを出す。悪い人は悪いものを入れた心の倉から悪いものを出す。それは口から出る言葉である。
 「人の口は、心からあふれ出ることを語るのである。」(ルカ6:45)

 ルカ6:46-49〈家と土台〉
 わたしを「主」と呼ぶ者たちよ。ならばどうしてわたしの言葉を聞き入れ、それを行おうとしないのか。あなた方は軟弱な地盤の上に家を建てた者に似ている。その者の家は洪水によって容易く押し流される。
 が、わたしの言葉を聞き、それを行う人は、堅固な地盤の上に家を建てた人に等しい。かれらの家は洪水によって押し流されることなく、いつまでもそこに在り続ける。

 福音書に記録される、数々のイエスの教えのうちでいちばん有名なものは<山上の垂訓>であろう。マタ5:1-12で語られるそれは、一部の表現を変え、教えの一部を省き(どうして?)、またそれと対になる教え(ルカ6:24-26)を伴って本章で語り直される。「マタイ」で語られて「ルカ」でも語られる、削られずに残った教えは謂わばそのエッセンスといえようか。人の生活に密にかかわる教えだけが残されて、他の抽象的なものは語るに足らず。その代わり、それと対になる教えが省かれた教えの欠損を埋め、かつ残された教えの真意を浮かびあがらせているようだ。「マタイ」の<山上の垂訓>よりもわたくし個人は「ルカ」での<平地の垂訓>(こんな表現はないのでしょうが)を好む者である。
 なお、ルカ6:26「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である」という言葉をわたくしは、「ルカによる福音書」ではなくチャールズ・M・シュルツの作品で知った。その作品を『チャーリー・ブラウン』といい、そのシュルツ伝でリタ・グリムズリー・ジョンスン『スヌーピーと生きる』(P100 朝日文庫)で、わたくしは知ったのである。
 本章にて12弟子が選ばれるが、なにかお気附きであろうか。実は1人、「マタイ」と「マルコ」に名前の載らない人物がいるのである。即ち、先の2福音書にはあった名前がここにはなく、それと入れ替わるように新たな人物が登場している、ということ。それはヤコブの子ユダである。これは勿論、イスカリオテのユダとは別人で、果たしてこのヤコブがヨハネの兄弟でゼベダイの子ヤコブを指すのかは不詳だ。ちなみに、ヤコブの子ユダの箇所は「マタイ」と「マルコ」ではアルファイの子タダイとなる。
 ──それにしても、と思う。本章はイエスの教えが混じり気無しの状態で抽出された極めて良い一章である、と。このあとも様々な喩え話や教えが「ルカによる福音書」を彩る。そのなかには正典のうちでは本福音書のみが留める「良きサマリア人」(ルカ10:25-37)や「放蕩息子の喩え」(ルカ15:11-32)も含まれる。また、三浦綾子が『泉への招待』(光文社文庫)で紹介する宴席に招かれた客への教訓と宴会の喩え(ルカ14:7-24)もある。が、これらを別にすれば「ルカによる福音書」で虚心にその言葉へ心を傾けるべき章、何度も繰り返して読むに値する章である、といえよう。

 本日の旧約聖書はルカ6:4とレビ24:5-9、ルカ6:4とサム上21:2-7。



 理由はともかく昨夜の帰宅後、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのです。本棚にあってすぐ出せるのは村上春樹の新訳版。これは村上訳チャンドラーの第一弾として話題になった。単行本は流石にチャンドラーっぽくないな、と思うたので買うのを敬遠。が、旬日経ぬうちに新装版としてちょっと厚めのペーパーバックが発売されたので、古書店経由で購入、耽読しました。
 ですが、感想を述べるために筆を執っているのではありません。その判型の話なのです。なぜ早川書房は『ロング・グッドバイ』を単行本・新装版・文庫の3形態で出し、続く『さよなら、愛しい人』、『リトル・シスター』、『大いなる眠り』は単行本と文庫だけにしたのか。昨年末に刊行された『高い窓』もほぼ間違いなく文庫化のみで、新装版の刊行はないのだろう。個人的にはペーパーバックと同じ判型の新装版が、3種のうちでいちばん読みやすかったのですが。
 これだけの厚み(710ページ超!)となれば寝転がって読むには時に額を強打する凶器となり、満員電車のなかでは周囲の非難に満ちた眼差しを浴びることだってあり得よう。序でにいえば、吊革にぶら下がって片手で読むには、指も手首も痛くなる……。
 ところで、わたくしはどこで、この新装版を読んだか? 白状すれば殆どを、電車のなかで坐って読んだ。井の頭恩賜公園の池のほとりのベンチで読んだ。新宿の喫茶店で読んだ。そうして自宅のベッドの上で読んだ。
 つまり、坐るか横になるかしてしか読んでいないのです。たしかにこの厚さとなればどんな姿勢で読んでも手が疲れてくるけれど、それを差し引いても村上訳チャンドラーはこの新装版で揃えて読みたかったですね。
 実をいえばこれまでは、この判型の問題あるがゆえに村上訳チャンドラーは『ロング・グッドバイ』以後、図書館からの借り出しで済ませていました。が、このところ頓にそれ以後の訳本を手元に置いておきたくて仕方なくないのであります。『ロング・グッドバイ』については新装版のみ架蔵のため、単行本か文庫か、どちらかを買い直す必要があるけれど、そういえば活字の詰まった文庫には二の足を踏んだことがあった。となれば既刊の4作は単行本で、ということになるのだが、今度はスペースの問題が生じてね。嗚呼、と我知らず天を仰ぎたくなる。滑稽ですな。
 訳者を真似るわけではないけれど、わたくしがこの『ロング・グッドバイ』を読み通したのは2度だけだ。その他の場合は、気になり出して確かめずにはいられなくなった細部のチェックだったり、なんとなく手にして開いたページにしばし目を落とすのが専らだった。今回は前者の例で、第21章にあるマーロウの朝食(コーヒーとカナディアン・ベーコン!!)とオフィスの掃除の場面が読みたかったのです(P258)。
 昨夜の帰宅後、レイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』に手を伸ばしたのは、そんな理由だ。でも、どうしてドストエフスキー(『虐げられた人びと』)を読んでいたら唐突にマーロウの朝の場面を脳裏に思い浮かべたのだろう?◆(28)

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