第1955日目 〈ルカによる福音書第14章:〈客を招待する者への教訓〉、〈「大宴会」のたとえ〉他with バッハのフルート・ソナタを聴いています。〉 [ルカによる福音書]

 ルカによる福音書第14章です。

 ルカ14:1-6〈安息日に水腫の人をいやす〉
 安息日、イエスは食事の招きを承けてファリサイ派の議員の家に行った。そこにはイエスの言動を監視する人々が大勢いた。家のなかに水腫を患う人がいた。
 その人を前に、イエスは一同にいった。安息日に人を癒やすのは是か非か、律法はどのようにいうか。
 議員の家に集まった人々は皆、一様に押し黙ってしまったのである。
 イエスは水腫の人の手を取り、癒やして、帰らせた。
 かれは人々の方へ向き、訊ねた。あなた方の愛する者が事故に遭ったとしよう。その日はちょうど安息日だった。では安息日だからという理由で、あなた方は、自分の愛する者を助けないのか。
 議員の家に集まった人々は皆、これに答えることができなかったのである。

 ルカ14:7-14〈客を招待する者への教訓〉
 イエスは招待客が自ら進んで上席へ行く様子を見て、こういった、──
 宴席に招かれたらば上席を選んで坐ってはならない。あとからそこへ坐るべき人が来た場合、その者は席を譲らなくてはならず、いらぬ恥をかいて末席へ移る羽目になる。
 宴席に招かれたらば、寧ろ末席を選んで坐りなさい。そうすれば招待主が来て、さあもっと上座へ坐ってください、と促すだろう。そうすれば、その者は面目を施すことになる。
 「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:11)
 またイエスは自分を招いた人に対しても、こういった、──
 「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」(ルカ14:13-14)

 ルカ14:15-24〈「大宴会」のたとえ〉
 と、食事をしていた招待客の1人が、神の国で食事する人はなんと幸いだろう、といった。これに応じてイエスの曰く、──
 或る人が盛大な宴会を企画して、大勢の人を招待した。支度も調い、時間になったので、そのひとは招待客各位の許へ僕を派遣して招いたのである。が、あらかじめ招待されていた人々は口々に理由を並べ立てて、出席できない旨伝えた。これを聞いた招待主は憤り、僕に命じていった。曰く、──
 「『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』やがて、僕が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』」(ルカ14:21-24)

 ルカ14:25-33〈弟子の条件〉
 ファリサイ派の議員の家を辞したイエス。かれは自分に従いて来る群衆へ向かって、いった、──
 自分の両親や配偶者、子供或いは兄弟姉妹、更に申せば自分の命を憎まぬ者は、わたしの弟子になり得ない。自分の持ち物一切を捨てられないなら、あなた方の誰1人としてわたしの弟子ではあり得ない。

 ルカ14:34-35〈塩気のなくなった塩〉
 塩気のなくなった塩に味付けをする方法があるだろうか。塩気のなくなった塩はもはや顧みられることがない。畑に蒔くことも肥料とすることもできず、ただ役立たずとして外へ捨てられるだけだ。
 聞く耳のある者は俺を聞きなさい。

 イエスの喩え話にはときどき「はてな?」と思わせられる箇所がある。たいていは時間を置けば、ああそうかそういうことか、と合点がゆくのだけれど、一読すぐにわかるものは、実はけっして多くない。そんななかで本章は少数派ながら例外ということのできる喩え話である。もっとも、それを喩え話というてよいものか、迷うところではあるけれど。
 宴席に招かれたら末席(下座)に坐れ。上席には然るべき立場、肩書きの者が坐るのだから。末席に座を占めるべき者が、たとい不注意や不案内ゆえであっても上席についた場合、その者は恥をかき、時には非難を浴びることもあろう。斯様な事態を防ぐためにも最初から末席に坐っているのがよくて、その後幹事から奨められればそれに従い、もっと上の方の席へ移ればよい。そうすれば却って面目施しになるし、自尊心も傷附かずに済む。まわりから丁重に扱われる場合も、「瓢箪から駒」式にあるかもしれぬ。とにかく下座に坐る方が無難な者が最初から上座へつくのだけはいけない、というのだ。
 新社会人向けのビジネス・マナーの本に、上座・下座のことが能く書かれている理由も、これに近い。恥をかかぬため──ではあるが、この場合はむしろ社会人としての常識を問われるのであり、即ち礼儀作法の域に入る。とはいえ、自分を守るための知識、自分の評価を上げるための知識、という点では、新約聖書で語ることも社会人向けビジネス・マナーの本で教えることも、同じだ。
 そうして、──
 宴席の招待客は、むしろいわゆる<社会的弱者>を専らとせよ。なぜならば、お礼される心配がないからだ。自分と同等の者らを招待するのは、心のどこかで相手に同じような行為を求めることだ。勿論、お返しを求める気持ちなどさらさらなく、なにも期待するところなしに宴席を設け、人を招けばそれで良いのだが、それはなかなか難しいことであるのかもしれない。繰り返しになるが、どこかの時点で必ずお礼返しというものが発生するからだ。
 ならば、最初からお礼される心配のない<社会的弱者>を招いて食事を供せばよい。これは貧しき者に施せ、というのと同じ趣旨なのかもしれないな。引用したルカ14:21-24は無私であれかし、と説き、またその行いゆえに正しい者が復活する際にはきっと報われる、というのだ。
 最後に。
 <弟子の条件>はマタ10:37-39を並行箇所とする。わたくし自身の一人勝手な読み方をしての判断だが、ここは「ルカ」よりも「マタイ」を基にして読んだり考えたりするのがよいと思う。単にそちらの方が整然としていてわかりやすい、というだけのことだが、余計な喩えが「マタイ」にはない分そちらの方が良いと思うのだ。



 旅先で聴こうと思ってiTunesに取りこみ、iPhoneに移したなかにバッハのフルート・ソナタ全集がある。ペトリ・アランコのフルート、アンシ・マッティラのハープシコード他のNAXOS盤で、これを書きながら(iMacに入力しながら)聴いているのはBWV1020、ヴァイオリン・ソナタのフルート編曲版の第2楽章である。
 これは10年以上前には実によく聴いたもので、だがそれ以後はまったく耳を傾けることのなかった音盤であった。今回旅行のために、という名目で手持ちのバッハのCDは1/3程iPhoneに入れたのだが、いまのところはこのフルート・ソナタをいちばん聴いている。
 しばらく音楽について書いていないのでどう表現したものか悩むけれど、耳に優しく、丸みのある音色で、心のおだやかさを誘うような演奏なのだ。それは即ち、自分にとっては執筆するにあたっては願ってもない作業用BGMになっている、ということ。むろん、これは最大限に顕彰した表現である。
 もっとも、聖書読書ノートの場合は第一稿を書くに際して集中したいため、その間は音楽なしで取り組む必要がある。バッハを聴くのはそれ以後の作業の際ということになる。受難曲や教会カンタータならいいのではないか、という声が聞こえてきそうだが、却ってそちらはいけない。意識が引き裂かれて停滞を生むばかりだ。実証済みなのである。やはり器楽曲か室内楽の作品が執筆にあたってはいちばん落ち着いて集中できる。
 正直なところをいえば、もっと大容量のポータブル・プレーヤーを手に入れて、そこに架蔵するバッハの音盤すべてを入れてしまいたいのだけれど……。ああ、iPod Classic復活しないかなぁ。◆

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