第2066日目 〈使徒言行録第22章1/2:〈パウロ、弁明する〉、〈パウロと千人隊長〉他with「使徒行伝」を読んでいちばんの収穫は、パウロへの関心の芽生えかもしれない。〉 [使徒言行録]

 使徒言行録第22章1/2です。

 使22:1-5〈パウロ、弁明する〉
 パウロは階段の上からヘブライ語で、ユダヤ人たちに話し始めた、──
 わたしはキリキア州タルソス出身のユダヤ人です。かつてガマリエルの許で律法を学び、ファリサイ派に属し、皆さん同様神へ熱心に仕えました。わたしはかつてこの道、即ち主イエスの教えを迫害する側でした。その信者を弾圧し、投獄したりしたのです。これらのことは長老会も大祭司もご存知です。
 或る日わたしは、ダマスコにいる信者たちを逮捕・連行してもよい、という手紙を祭司長たちからもらいました。そこで勇躍その地へ向かったのですが、──

 使22:6-16〈パウロ、自分の回心を話す〉
 ダマスコの近くまで来たとき、天から現れた強い光がわたしたちを包みました。わたしはその光のなかで自分に語りかける声を聞きました。なぜわたしを迫害するのか、とその声はいいました。それは主イエスの声に他なりませんでした。その声を聞くと同時にわたしの目は見えなくなりました。
 そんなわたしに主イエスがいいました。ダマスコへ行け、しなくてはならぬことはすべてそこで明らかにされる。わたしは従者に手を引かれて町へ行き、それが知らされるのを待ったのです。
 ところでダマスコにはアナニアという、律法に従って生活する信仰深い人がいました。かれはわたしのところへ来て、目が見えるようになれ、といいました。すると、おお、わたしの目は再び世界を見ることができたのです。
 アナニアはわたしにいいました。わたしが先祖の神に選ばれたこと、それは神の御心を悟らせ、あの正しい方イエスにわたしを会わせてその言葉を聞くためであることを。洗礼を受け、罪を洗い清めなさい。そうかれはいいました。「今、何をためらっているのです。立ち上がりなさい」(使22:16)とアナニアはわたしを鼓舞しました。

 使22:17-21〈パウロ、異邦人のための宣教者となる〉
 そうしたことを経験したあと、わたしはエルサレムに戻って神殿で祈りました。やがて忘我の状態になったわたしは主に会い、その声を聞きました。わたしを受け入れない者たちが来る、早くここを出よ、という声に従って、わたしはその場を去りました。
 先程も申しましたように、わたしは主イエスの信者たちを迫害しました。ばかりか、ステファノが殺される現場にも居合わせたのです。わたしは主にそのことを申しあげました。すると、主はこういったのです、──
 「行け、わたしがあなたを遠く異邦人のために使わすのだ。」(使22:21)

 使22:22-29〈パウロと千人隊長〉
 パウロの話を聞いていたユダヤ人は、一斉に罵声と怒号をあげ、そんな奴は地上から取り除いてしまえ、と喚いた。
 千人隊長リシアはパウロを取り敢えず兵営に収監するよう命じた。そこでかれを鞭打ち、どうしてユダヤ人がかれを厭うのか調べよう、というのである。
 そうして、いままさに鞭打たれようとしたときだった。パウロは傍らの百人隊長に訊ねた。「ローマ帝国の市民権を持つ者を、裁判にかけずに鞭で打ってもよいのですか」(使22:25)と。
 百人隊長からこのことの報告を承けた千人隊長はパウロのところへ行き、本当にあなたはローマ帝国の市民なのか、と問うた。パウロは首肯した。
 自分はお金を積んで市民権を得た、あなたはどうなのか。千人隊長の問いにパウロは答えた。わたしは生まれながらのローマ市民です。
 「そこで、パウロを取り調べようとしていた者たちは、直ちに手を引き、千人隊長もパウロがローマ帝国の市民であること、そして、彼を縛ってしまったことを知って恐ろしくなった。」(使22:29)

 ローマ帝国の市民権については既に使16、第2059日目にて述べた。今日はそこで触れなかった市民権の継承について補足する。
 市民権は当時男子のみに与えられたようである。奴隷や兵役期間中の属州民には市民権を承ける資格がなかったというから、ローマ乃至は属州に住まう軍人、庶民がまずはその対象と考えてよい。
 市民権を入手する方法は幾つかあったが、一度与えられた市民権は余程のことがない限り子々孫々にまで継承されていた。スラ、或いはカラカラ帝による帝国領民のすべてに等しく市民権が発行されてしまうまでは、一族に付与された市民権は正常に継承されてゆき、相応の価値と特権を享受できていた、ということであろう。
 市民権の付与されない対象として奴隷や兵役中の属州民というたが、ここには女性も含まれた。というのも、市民権は個々に付されるものではなく、一家の家長(父や夫、老いては子)に対して発行されるものだったからだ。女性に経済活動は許されていても、市民権に含まれるような特権は与えられていなかった、ということである。



 わたくしは当初、パウロをそれ程好いてはいなかった。かというて嫌うていたわけでもない。関心の対象外であった、というのが正直なところだ。
 が、近頃はそうでない。パウロという人物にそれなりの関心が生まれてきている。おそらく、「使徒言行録」を読んでゆくなかでパウロという人物が、生身の者として目の前に立ち現れてきたためだろう。読んでいるとわたくしもパウロの傍にいて、その謦咳に触れ、かれの人生の諸場面の目撃者となっているように感じられてくるのだ。
 初期キリスト教会の伝道の歴史を「使徒言行録」は語る。代表的使徒の活動やパウロの半生の活動をも「使徒言行録」は記録する。本書は初期キリスト教会の伝道を記すゆえに歴史書へカテゴライズされるが、不完全ながら最も早い段階で成立したパウロ伝でもある。
 わたくしはパウロ伝ということも可能な「使徒言行録」を1日1章の原則で読み進めてきて、それまで殆ど関心の対象外にいたパウロをその中心とし、その人生の観察者となった。ゆえに生まれたパウロへの関心。もしかすると、「使徒言行録」を読んでいてのいちばんの収穫は、そこら辺にあるかもしれない。◆

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