第2080日目 〈ローマの信徒への手紙第6章:〈罪に死に、キリストに生きる〉&〈義の奴隷〉withちかごろのわたくしのSKE48観。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第6章です。

 ロマ6:1-14〈罪に死に、キリストに生きる〉
 では、われらは恵みを増すために罪のなかへ留まるべきなのでしょうか。否、断じてそうではありません。罪に対して死んだわれらがどうして、なおも罪のなかに生きることができましょう。
 われらは洗礼によってイエス・キリストに結ばれ、その死に与るため(われらも)洗礼を受けたのです。死者のなかからキリストが復活したように、われらも罪の固まりであった体を死なせて新しい命を得て生きるようになったのです。われらがキリストと一体になってその死の姿にあやかることができるなら、われらはキリストの復活の姿にもあやかれることでしょう。
 「わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。」(ロマ6:6-7)
 キリストと共に死んだ者はキリストと共に生きる。あなた方はこのことを信じて、忘れてはなりません。あなた方は罪に対して死んだが、いまやイエス・キリストに結ばれて、神に対して生きることを知りなさい。
 「従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。」(ロマ6:12-14)

 ロマ6:15-23〈義の奴隷〉
 われらはたしかに律法の下ではなく、恵みの下におります。が、だからというて罪を犯してよい、というわけではありません。
 奴隷となった者はその従う人の奴隷であります。どういうことでしょうか。「つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。」(ロマ6:16)
 咨、あなた方はかつては罪に従う奴隷でした。が、いまは伝えられた(キリストの)教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放されて義に仕えるようになりました。わたしはこのことを神に感謝します。
 「あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」(ロマ6:20-23)

 第3章からパウロが話題としてきた「義」の問題は、本章にてひとまずの結論へ至りました。律法から離れて信仰によって義とされる、というパウロの主張はここに(一応の)結実を見せた。弁解めいて恐縮ですが、今日引用した箇所はことごとくこの「信仰による義」についての統括として機能し、その思想を凝縮させた重量感ある文章と思うのであります。
 パウロ流の修辞が炸裂しているため、なかなか一筋縄ではゆかぬ点は本章とて例外ではない。とはいえ、さすがに1週間読んできてややカンが鋭くなったのか、相応に働くようになったのか、或いはただ単にパウロの弁証法に馴らされただけなのか、われながら定かでないけれど、すくなくとも本章に関してはそう労することなく、パウロはこういうことをいいたいのだな、と察し得て、結果小一時間で本稿を仕上げられたことである。まさに<読書百遍、……>でありますね。



 SKE48/AKB48の松井珠理奈が今月21日、総合プロデューサーと次期総監督立ち会いのなかで、今後の活動にかかわる重大発表を行うという。もはや気持ちがだいぶSKE48から離れてしまっているので、その発表の内容がどんなものであろうとさほど驚く気分ではないのが本音。総大将玲奈ひょんの卒業にくらべれば……。
 近所のTSUTAYAが閉店するので半額で叩き売られている音楽CDの山のなかから、SKE48のアルバム《この日のチャイムを忘れない》初回特典盤を購入してきた。これを歴史の前期とすれば、現在は後期(中期?)ということになろうが、爾後の歌で自分のなかに残るシングル曲は5曲だけ。リリースされたうちのちょうど半分である。更にシングルCD或いは音源DLで購入したのはわずかに3曲という為体。われながら潮が引いた、という実感を抱くね。
 世代交代、次世代エース、7D2と騒がれながらも楽曲やダンス、メンバー、PVにさしたる新味は見受けられず、この間SKE48はむしろ安逸なる停滞に甘んじているように映り、為に突然の卒業発表に震撼してすぐにその状況に「ああ、またですか」と納得できてしまう、負のデフレ・スパイラルというよりない構造を生み出している──ちかごろのわたくしのSKE48観である。
 でも、「12月のカンガルー」は良かったな。松井珠理奈と松井玲奈というW松井から宮前杏実と北川綾巴をダブル・センターに起用したものだが、どうして運営側やレコード会社はこの路線を推し進めてくれなかったのだろう。数字とかいろいろ理由はあるのだろうけれど、緩やかに改革を継続してゆけばスムースな世代交代が、新戦力の育成がされていったことであろうが、蓋を開けてみれば次の「コケティッシュ渋滞中」ではW松井のセンター曲に戻ってしまった。これではせっかくの人材を捨て駒にしたようなものである。『ガンダム』に於けるランバ・ラル的な? そう、まさにその比喩がぴったり!
 「不器用太陽」、「前のめり」と好きな作品はその後も続くが、いずれにも相応の話題性があって、果たして純粋に作品で勝負できたのか怪しいところである。今後、回顧屋に等しいわたくしの琴線に触れるような作品と出会える気は、まるでしないのだ。もちろん、出会いはあるまい、と申し述べる根本には、わたくしの側に一切の問題があることを否定はしない。
 そうだなぁ……古畑奈和のサックス、東李苑のピアノで、アイドルのCDとしては実験的かつ冒険的な、たとえばヤン・ガルバレクを彷彿とさせるアルバムを1枚作ってくれたら、喜んで買うだろうけれどね。むろん、レヴューだってします。無理だろうけれど、聴いてみたい。◆

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