第2081日目 〈ローマの信徒への手紙第7章:〈結婚の比喩〉&〈内在する罪の問題〉withむかしの作品が亡霊となって立ち現れ、わたくしを苛むこと。〉 [ローマの信徒への手紙]

 ローマの信徒への手紙第7章です。

 ロマ7:1-6〈結婚の比喩〉
 律法は生きている人間に対してのみ有効です。結婚で喩えましょう。妻は夫が生きている限り、律法に支配されています。が、夫が死ねば妻は律法から解放されるのです。
 あなた方はいま、キリストに結ばれて生き、律法に対しては死んだ者となっています。それは死者のなかから復活した方のものとなったことで、神に対して実りを結ぶ存在となったからであります。
 「わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。しかし今は、わたしたちは、自分を縛っていた律法に対して死んだ者となり、律法から解放されています。その結果、文字に従う古い生き方ではなく、“霊”に従う新しい生き方で仕えるようになっているのです。」(ロマ7:5-6)

 ロマ7:7-25〈内在する罪の問題〉
 律法それ自体は罪ではありません。が、わたしは律法によって罪を知りました。律法はわれらの生活を規定し、神の目に正しいと映ることは何か、神の前に義とされることはなにか、或いはどういうことをしてはいけないか、を教えます。裏を返せば、してはいけないことをすれば、もしくは神の目に悪と映ることをすれば、それは罪を犯したことにあるのです。律法によって罪を知るとは、実にそういうことなのであります。
 また、律法は規約でありますから、規約によって罪が罪と定められなければ、何人と雖も罪を罪と認識することはありませんでした。律法によって罪はその足掛かりを得て、われらの内にあらゆる<貪り>、<他に属する物や人をわがものにしたいと欲する願望>を生んだのです。が、わたしは──かつては律法とは関わりなしに生きてきたのに、掟が登場したことで罪は生き返り、と共にわたしは死にました。それは同時に、命を与えるはずの律法が死を招くものであることを知ったときでもあったのです。
 「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです。それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。」(ロマ7:12-13)
 咨、わたしは自分がしていることがわかりません。望んでいることは実行せず、望んでいないことを実行する。わたしの肉に善は住んでいない。望む善は実行せず、望んでいない善を実行している。善を行う意思はあっても、実行できない。自分で望まないことをしているとすれば、それを行っているのは最早わたしではなく、わたしの内に巣喰う罪なのです。おお!
 「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。
「内なる人」としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。」(ロマ7:21-24)
 「このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」(ロマ7:25)
 こんなわたしをいったいだれが救ってくれるでしょう──わたしはイエス・キリストを通して神に感謝します。

 律法は社会規範を確かなものとし、人間の生活を正しいものへ導く。そうした点で律法は聖なるものであります。しかしなににも二面性がある以上、律法は不正と不義と不道徳を教えもします。パウロが本章後半で言葉を尽くして説くのは、そうした点を明らかにせんがためでした。が、これを把握してそれを頼りに分け入ってゆけば、難解と映るロマ7:7-25〈内在する罪の問題〉を読んで内容がわかるようになることは、ずいぶんと容易なことではないのか、と思うのであります。自分の体験に照らし合わせての発言を、敢えてさせていただきました。
 そのままの引用こそ控えたものの、ロマ7:20「もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」は、今日のわれらの行いにも、じゅうぶんに通用する告白である、とわたくしは申しあげましょう。

 本日の旧約聖書はロマ7:6と出24:12、ロマ7:7と出20:17及び申5:21。



 やはりわたくしも艶笑小説へ手を染めたことがある。学生の時分だったな。或る出会いを契機に国内のものでは『四畳半襖の下張り』や『長枕褥合戦』、『藐姑射秘事』を、海外のものでは『歌姫の告白』や『仮面舞踏会の夜』を、専ら耽読して風狂に淫し、その結果として自分も擬古文を更に模倣した文章で『艶戯色乃乱玲』てふのを書いた。
 この前の休みの日の昼、過去に書いた原稿をしまった段ボール箱を発掘、軒並み点検していたら、まさにこの作品が出て来たのには相当赤面、そのまま七転八倒した。文章は勿論拙くて自分以外の誰にも公開はできないけれど、読み返すち執筆当時のあれこれが思い出されて長く長く嗟嘆するより仕方なく。ここに描いた人々は実在する。内1人の行為を描いた後半は、ほぼノンフィクションだ。
 そこにはとても儚く、壊れやすい時代の記憶が封印されていた。わたくしは──あれから4半世紀が経過したいまにして思う──いったいなんてものを書いてしまったのだろう。これだけは、生きている間にこの世から抹殺してあの人を守り、わが血だらけの魂に久遠の安息を与えてやらねばならぬ。さもないと、「やがて裁きの座が開かれ/彼はその権威を奪われ/滅ぼされ、絶やされて終わる」(ダニ7:26)ことだろう!◆

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