第2082日目 〈みくらさんさんか、ただいま「体力作りの秋」を堪能中。〉 [ウォーキング・トーク、シッティング・トーク]

 ちょっと今日は「ローマの信徒への手紙」のブログはお休みして、他の話題を俎上に上そうと思います。ううん、ちがうよ、原稿が書けていないわけじゃぁ、ない。完成していないだけである、と胸を張ってみる。
 さて、うれしいことに7月から12月までの約半年、村上春樹の新刊ラッシュが始まっている。8月はなんの音沙汰もなかったけれど、これだけの点数が刊行されるのはいったい何年ぶりだろう。うち2点は過去の単行本の文庫化だけれど、それとてファンにしてみれば<祭り>の一環になっているのだ。
 ところでわたくしは、村上春樹が昨年だか一昨年だかにジョギング専門誌(というのがあるの? もしかするとスポーツ雑誌のジョギング特集かなにかだったかもしれない)へ寄稿したエッセイが単行本に収録されることを望んでやまない者である。走ることについて氏が語った本は、『走ることについて語るときに僕の語ること』(文藝春秋/文春文庫)がある程度で、他にはわずかにエッセイ集や紀行文のなかの一場面として、走っていることが語られているぐらいだった。
 これまではあまり──一読はしても再度手にする機会のなかった、書架のなかではほぼ死蔵に等しい扱いを受けていた本書だが、この2週間ばかりは自発的に手に取って氏のジョギング観(というてよいのか?)に触れること度々である。
 というのも、ちかごろ体力の低下を頓に実感していることに加え、スーツのズボンがはけても殆ど余裕のない状態に顔色を青くしたことに端を発して、会社の昼休みの後半を使ってビルの最上階からエレベーターの連結階まで20数階分の非常階段を歩くようにしているのだ。
 むろん、アドヴァイザーはいる。周囲には趣味というてよいのか、カルマというてよいのか、ジョギングを日常としている人が何人もいる。スポーツに勤しむ人は、見渡せば他にも何人となくいた。その人たちの助言をいれて、いまはまだ降りるだけの状態だが、体が馴れてきたら今度は数階ずつ階段を上ってゆこうとしている。
 階段を降りていると、本当にいろいろなことが思い浮かんで、消えてゆく。その最中だったのだ、村上春樹の上述のエッセイ集を帰ったら読もう、と思い着いたのは。それがきっかけで、この2週間ばかりは自発的に手にしてそれを繙くようになったのだ。
 そうなると、かつて書店で見掛けたもののジョギング専門誌(というのがあるの? もしかするとスポーツ雑誌のジョギング特集かなにかだったかもしれない)への寄稿ゆえに流し読みをしてそのまま棚に戻してしまったエッセイを、今一度読みたくなって仕方ないのである。これが単行本に収められればいいのだけれど、なかなかそんな機会は巡ってきそうにない。来月刊行される紀行文集に収められる様子もないし、……となると読みたい気持ちはますます募ってゆくのだ。まるで<逢不逢恋>だね。
 実は同僚から来年の三浦マラソンに参加しようよ、と誘われている。聖書読書ブログも完結していないのに練習時間なんて割けるわけない、と思うておるから、のらりくらりと逃げているけれど、一昨日あたりから(まだ同僚には黙っているが)リタイア覚悟で走ってみようかな、と倩妄想しているところだ。
 本業は坐り仕事だから体を動かすことはないし、業後もスタバに行くまでの片道約3キロは徒歩だけれど、着けば再び数時間坐って原稿を書く、しかも姿勢がやや悪い、となれば、放っておいても肉は付くし、体力も少しずつ低下してゆくのを実感してる身としては、どこかで無理にでも体を動かす必要が出てくる、という次第。それが非常階段の昇降の実行であり、マラソンへの参加検討に結びついている。
 昨日、わたくしは伊勢佐木モールで飲んだくれて、午前様だった。当然終電はなく、歩いて帰った。汗も結構かいた。が、以前のように相撲さんみたいな歩き方ではなく、もう少しきびきびした歩き方であったこと、そうして途中でペースが落ちることもなかった。トレーニング(呵々)を始めて間もないのに、早くも体は変化を起こしてきているようである。
 このままだとお腹を空かしてハチミツを探しているくまのプーさん、もしくは一緒にモフモフしようぜとわめいている不良中年テディベア、テッドの如きわが外見は失われてしまうことになるかもしれぬが、それも致し方ない? いやぁ、正直なところ、それは避けたいのだけれど……。◆

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