第2097日目 〈【小説】『それを望む者に』 01/20〉 [小説 それを望む者に]

 「いってらっしゃい」と夫はいった。
 「いってきます」と妻。軽いキスを交わして、彼女はマンションの外廊下を早朝の空気のなかへ去ってゆく。そうしてそれが、夫婦の最後の会話となり、生きて出会った最後となった。
 夫婦は、妻が一泊二日の東北へのバス旅行から帰ってきたら、子供を作る予定だった。決めてからこの方、夫は━━作家は折りにつけて小説を書くのをほったらかしては(「手を休めているだけ」とは本人の弁だ)子供の名前をすでに、一〇〇以上用意していた。ついでにいえばそれらは片っ端から、妻に却下され続けていまに至っている。
 そんな矢先のバス旅行━━妻を送り出したその日の夕暮れ時である。昼寝から覚めてまどろんでいたところを、電話に出ると、妻の死を知らされた。バス・ツアーを主催した旅行会社の者は、どんよりとした声で伝えた。失われた人間の命よりも会社の存続、つまりは己の定収入がなくなる方がよほど心配だ、というような声だった。「地震で道路が陥没し、その裂け目にバスが落ちて乗客乗員がみな重傷を負い、近くの病院へ搬送されて手当を受けている」と。教えられた病院へ電話をかけて、妻の具合を確かめる。嗚呼、どうか、と作家は祈った、この世で信仰されているあらゆる神に。どうか妻が無事でありますように。さしたる怪我ではありませんように。電話の保留音が途切れた。しばしの沈黙が訪れた。作家が唾を呑みこんだとき、電話の向こうの相手がいった。奥様はたったいま亡くなられました。極めて事務的で抑揚を欠いた口調だった。作家の手からコードレスの受話器が落ち、うまい具合にフックへ当たり、そのままフローリングの床へ鈍い音をたてて転がった。
 リビングのソファへ坐りこみ焦点の定まらない目で、まだカーテンを引いていない窓の向こうへ広がるあかね色に染まる西の空を眺めた。あまりに突然な予想外の出来事で、ふしぎとすぐに涙は出てこなかった。まだ心はそこまで事実を現実の出来事と認めてはいないのだ。が、テレヴィのニュースで妻の死が現実のことで、死のきっかけとなった東北地方を襲って未曾有の被害をもたらしたという地震のことも現実と受け容れられるようになった。彼は両膝を抱えこんで声を押し殺し、妻の名を繰り返し呼びながらむせび泣いた。
 妻はそれから一週間後、荷物と一緒に無言の帰宅をした。マンションの隣人や妻の主婦仲間(誰一人として知る顔がないのに愕然とした)や管理会社の担当者らを主な参列者として公営の斎場で通夜と葬儀が営まれた。葬儀から帰って、納戸から文机を出してきて雑巾で拭き清めてレースのテーブルクロスを折って敷き、遺影や骨壺、位牌を並べた。香典袋や芳名録のチェックをしなくてはならなかったのだが、それさえ億劫に感じられ、シャワーを浴びて冷蔵庫から缶ビールを出して二本あけると、文机の前に寝転がり、遺影の妻と視線を合わせているうちに、眠りの世界へ落ちていった。なお、その週末に設けられていた短編小説の締め切りを、彼は落っことした。

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。