第2098日目 〈【小説】『それを望む者に』 02/20〉 [小説 それを望む者に]

 妻が死んだ。一週間が経ち、十日目を迎えても、それは未だ信じられない出来事だった。一日のうちで彼は何度も思う、あの朝出て行ったのと同じ格好でひょっこりと妻が舞い戻ってくるのではないか、と。ちょっと長い旅行へ出掛けているだけで、この十日間のことはすべて性質(たち)の悪い夢かもしれない、と。
 しかしすべては現実である。仕事と家事の合間に、彼女の死後、主に生命保険会社から次々に送られてくる、書類の数々と悪戦格闘したことが、それを否応なく知らしめているのではないか。美しい夢は眠りのあちら側にしか存在しない。醜悪で残忍な現実は、いつだって自分のまわりにある。アーメン。
彼女の死を受け容れられるようになったのは、その日から二週間になろうという日である。が同時に、それを再び疑わしくさせたのも、十四日が経とうとしている日だった。そんな相反する気分にさせてくれるのに相応しく、夜の深まった時間帯に作家はその光景を目の当たりにした。
 腹の虫が鳴って夕食の支度に取りかかった。炊飯器のスイッチを入れて米を炊く。きっかり三十分後にキッチンへ立ち、おかずを作り始める。
 生活のペースはなんとか回復しつつあった。当たり前のように存在していた大切なピースを欠いた日々、だが生活のペースは取り戻され、一人で送る新しい生活の規範も徐々に形成されてきていた。淋しいけれど仕方のないことだ。どれだけ大切な人を失おうとも、生活が根底から引っ繰り返ったとしても、命ある限り生きてゆかなくてはならない。進むべき道はない、しかし、進まなくてはならない。
 作家は食事を終えると後片付けをし、風呂を沸かした。沸くのを待つ間、読まずに放ってあった朝刊へ目を通した。地震関係のニュースにはどうしても敏感になってしまう。仕方のないことだ。
 湯船へ浸かっていたら、ここで何度となく妻と情交したことを思い出した。妻の死後ずっと元気を失って永久に目覚めることもあるまいかと思われていたモノが盛んな反応を見せた。まだ妻の掌と口内のぬくもり、なめらかな舌遣い、熱く濡れそぼった蜜壺を覚えているモノを見て、ちょっと安堵した。作家は風呂からあがると水を飲み、体重を量った。
 仕事部屋(書斎と呼ぶのは大嫌いだった)で、一昨日完成した短編へ目を通して誤字を正した。決定的な、大爆笑を誘う誤字であった。ふと背後に人気を感じた。振り返る。が、誰もいなかった。もちろんだ。もし自分以外の何者かがいたのなら、住居不法侵入どころの話ではない。作家は再び原稿へ向き直り、最後の最後の行でとんでもないミスを発見し、大慌てでそれを正しく訂正した。いくらなんでも一行脱落させたままキーボードを打ち、気付かず編集部へ送っていたら、後々まで残る大失態となっていたかもしれない。作家はそれを思って、思わず背筋をぶるつかせた。
 もう一度読み直してだいじょうぶ、と判断すると、それを引き出しへしまい、リビングのテレヴィの前に移動して、リビングの電気は消したままで、深夜の映画を観た。前から名前だけ知っていて、なにはなし気になっていたイギリスのモノクロ映画だった。ハッピー・エンドで終わるものの、年末の都心部の町並みも顔色をなくすほどのごてごてしたデコレーションと、もたれて腹痛を訴えかねないぐらいの甘さがウリのケーキみたいな映画だった。立て続けにビールを流しこんで酔っぱらわねば正視もできないような、御都合主義と歯の浮く台詞が満載の、俗悪ゆえに愛されるタイプのハーレクイン・ロマンス。エンド・ロールを三分の二落ちた目蓋で観終えるや、ぐったりしてしばらく動く気にさえなれなかった。大きな溜め息をつくと同時に、待ってましたとばかりに、欠伸が四回、立て続けに出た。
 酔いと眠気と後悔でずっしり重くなった体を引きずり、空き缶を抱えて(八本あった!)キッチンまで歩いてゆく。それを、リビングのドアへ体を預け、裸身にバスタオルを巻きつかせた風呂上がりの妻が呆れ顔で眺めていた。頬を上気させて、髪を結いあげている。作家は無意識に空き缶をシンクへ置いて(というよりも並べて。まるで歩兵が整列したみたいだった)、妻の方へふらふら歩み寄った。なにか話しかけようとしても、舌が口蓋へくっついて離れない。おまけに口のなかはからからに乾いている。喉まで出かかった言葉が、塊になって気道を肺腑へ落っこちてゆく。作家は妻の前で膝を折り、彼女の腹の上で、頬をしとどに濡らした。妻がやわらかく微笑んだのに、彼は気がつかない。死者を想う者なら誰しも願う光景は刹那の後に、跡形もなく空気のなかへ消えた。
 作家は頭を振って思い直そうとした。いまのは幻だ、そう思いこもうとした。妻を思う心が束の間生み出した幻影に過ぎない、と。いまさらながら喪失の重みがどれほど自分のなかに痛手となっていたかを作家は思い知る。ちくしょう、と彼は吐き捨てるようにいった。投げやりな気分と鬱屈として切り替えのできない心を抱えながら、作家は和室に敷いた布団へ体を潜りこませた。初夏だというのに、夜半はまだ冷える。あ、歯磨かなかったな、と思い出したが、もう遅い。起きあがるのが面倒臭かった。いいや、明日ちゃんと今夜の分も磨こう。もっとも、そんな問題であるはずがない。
 独り寝の寂しさをかこち、オレンジ色の豆電球だけにした室内灯(シーリング・ライト)をぼんやり見あげているうちに目蓋が重くなってき、じわりじわりと睡魔が忍び寄ってきた。目蓋の裏にしか存在しない真っ暗な劇場の舞台の上にスポットライトが灯り、タキシードとイヴニング・ドレスで正装した羊の群れが、後ろ脚で立って互いに手をつなぎ、ヨハン・シュトラウス2世のオペレッタ《こうもり》のカドリーユの旋律に合わせ、ワルツを優雅に踊っている。なかなか愉しい光景である。独り寝の淋しさを紛らわすにはもってこいの、最高に馬鹿げた妄想だった。んふぅ、と意味のない呻きに似た声をあげた。羊の群れがご丁寧にカーテン・コールをして、閉じられた緞帳の影へ、手を振り投げキッスをして消えてゆく。当然、レディー・ファーストである。さすがは紳士の国と縁ある国の生き物だ。やることが違う。
 作家はそれを見送ると、深々と溜め息をついて、寝返りを打った。寝返りを打ったら、目の前に、静かに寝息を立てて眠る妻が横たわっていた。死者の姿ではなく、生前そのままの姿と寝息のリズムの妻が、隣で寝ていた。危うく悲鳴を洩らしそうになったがどうにかそれを押しとどめ、まじまじと妻の寝顔を観察した。確かに生きていたときの妻である。
 恐る恐る手を動かしてみた。指先が、パジャマの生地越しに彼女の肉体に触れた。生地越しにもわかる肌のぬくもりと、やわらかさ。生者のみが持ち得るものだった。掌を然るべき位置へ動かせば、心臓の鼓動さえ伝わってくるだろう。その考えに作家は大きな希望とそれ以上のとまどいを覚えた。いや、もしかすると、わずかの喜びとそれを圧するぐらいの恐れ、といった方が正確だったかもしれない。
 作家は目を閉じ、開き、それでもなお、そこで眠る妻の名を呼んだ。と、それに応じるように、すぅっ、と彼女の目蓋が開き、どうかしたのあなた、とでもいいたげな表情を瞳に浮かべて夫を見た。少し茶のかった瞳は、気のせいか、潤んでいるようだった。彼女が旅行へ行く前の晩、激しく床を共にし肌を重ねたあとの瞳の表情と、まったく同じだった。ぎこちない笑みを顔に浮かせようとする作家の両頬へ、妻の掌が包みこまれるように触れた。作家は再び妻の名を呼び、その、身長一五〇センチに満たない体を抱き寄せて、唇を重ねようとした。が、口づける直前に妻の姿はかき消え、体へかかっていた薄い掛け布団が支えを失い、はらり、と音もなく落ちていった。
 呼吸することさえ忘れてしまうような状況に出喰わして、愛しさよりもまず先に全身が総毛立ち、心臓を冷たい手で思い切り、ぎゅっ、と掴まれた気分がした。けっしてよい気分ではない。だが、常軌を逸した出来事を目の当たりにすれば、それも致し方のないところかもしれなかった。妻の寝ていたあたりへ手を伸ばすと、そこはわずかに窪んでシーツが乱れ、ぬくもっている。作家は細長い吐息をついて仰向けになると、天井を虚ろな目で見あげた。掌に残ったままの妻の体温と感触は、いましばらく消える様子がない。
 作家は悶々としながら明け方まで眠れぬ夜を過ごした。美しい夢は訪れなかった。

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