第2102日目 〈【小説】『それを望む者に』 06/20〉 [小説 それを望む者に]

 作家はノートへ目線を落としたが、またすぐに頭をあげた。視界の隅っこでグリーンのエプロンを着けた黒いシャツ、黒いカーゴパンツ姿の女性バリスタの姿が映ったからだった。顔をあげると、真正面から視線があった。久しぶりに会うような気がしたが、栗色の髪の毛にぱっちりした瞳の、色白で背が高い女性だった。生前の妻が、「あの人ぐらいの身長があればなぁ……」と羨望の眼差しを向けたこともあるバリスタであった。加えていえば、作家と妻が出逢った場面の目撃者。その女性バリスタは目が合うや、つかつかとこちらへ歩いてきた。
 こんにちは、とアニメ声のソプラノが頭上から降ってくる。「お久しぶりですね、先生。なんだか━━やつれてません?」手にしていた台布巾を折りたたみながら、続けて、「病みあがりみたい」と。
 「そうかな」と呟いて、作家は頬から顎へかけてのラインを撫でてみた。しかし、誰かにはっきり指摘されるほどにやつれたとは思えない。「そんな風に見える?」
 バリスタはためらいがちに頷いて、
 「お露さんに取り憑かれた新三郎みたいです」
 それは言い得て妙だな、と作家は苦笑した。そういえば牡丹の花が咲く季節だ。
 「でも、その状況はちょっとやばいな。みんなに気味悪がられる」
 「うーん、なんていうかな……」バリスタは腕組みをしながら小首を傾げた。「外見でそういったわけじゃなくって、なんとなく、こう……そんなオーラがでている、って感じですかね」
 「オーラ?」間髪入れずにバリスタが頷いた。ああ、そうか、それならよくわかるな。「でも、だいじょうぶだよ、至って健康だから。家から出なくても済んじゃう仕事だから、少し不摂生になったのかもしれない。心配してくれてるんだね、ありがとう」
 作家がぺこり、と頭をさげると、その動作に女性バリスタもつられて頭をさげた。間の悪いコントの一場面みたいだった。
 「忙しくても無理はやめてくださいね。先生が倒れたら、その分うちの売上げが落ちちゃいますから」と、べっ甲のカチューシャを直して、バリスタがいった。冗談とも本気ともつかぬ口調だったのが、作家の心に微妙な影を落としたのに、彼女は気がつかない。
 「今日もお一人なんですね。いつもお留守番じゃぁ、奥様がかわいそうですよ?」
 それは決して配慮を欠いた発言ではなかった。知らないのだから、仕方がない。作家の返答にバリスタの顔が曇り、代わって哀悼の色が浮かんだ。そして、作家がこれまで何十回となく聞いていい加減うんざりしている台詞を、彼女も口にした。まぁ、それが当然の反応で礼儀だからな。それにしても、たまにはもう少し変化のある、気の利いた台詞を口にする者はいないのか?
 「……可愛らしい方でしたよね」ぽつり、とバリスタがいった。「なんだか小動物みたいで……」
 一人でいるのをあまり好まず、家にいても仕事しているとき以外はたいていすり寄ってじゃれついてきた妻の姿を思い出しながら、いまバリスタがいった“小動物”という表現が、あまりに的を得ていたのに、彼は知らずおかしくなった。
 「いざいなくなってしまうと、どれだけ自分が彼女に依存していたのか、身に沁みてわかるね」
 刹那の間のあとで、声小さく、そうですよね、そんなものなんですよね、とバリスタは諾った。その表情にほんの一瞬とはいえ、暗い影が射したのを、作家は見逃さなかった。胸をえぐられた気分だった。知らずに相手の傷へ触れてしまった。誰もが誰かを失う。そんな自明のことに、彼はいま初めて思いをめぐらせたような気がした。目の前にいるバリスタの女の子だってそうだ。
 「背が小さくて元気いっぱいな人で、かわいかったですよね。私は奥様のこと、とっても好きでした」と彼女。それを作家は、うつむいて唇を噛んで聞いていた。バリスタの口許には懐かしむようなほほえみが浮かんだ。「先生と奥様、うちの店で初めて逢ったんでしたよね」
 短い時間に自動ドアが何度も開き、レジに客が並び始めてざわめいてきたのが、雰囲気で伝わってきた。女性は一礼して、仕事に戻った。去り際にうるんだ瞳で作家を見、「でもね、先生。もういない人をいつまでも一途に想い続けるのは、なによりもつらくて苦しいことでもありますよ。そして、残酷です。たぶん、それは遺された側のエゴでしかないから━━」
 作家はバリスタの後ろ姿を見送って、ぐるり、と頭をめぐらせてガラス窓の向こうへ目をやった。視線は、ガラス壁の向こうに見える、だんだんと暮色を増してゆこうとしている伊勢佐木モールではなく、店内、ガラス壁に面した、スツールの六脚あるカウンター席へ向けられている。
 先生と奥様、うちの店で初めて逢ったんでしたよね。さっきのバリスタの声が脳裏に響いてよみがえった。
 それに頷く自分の声が聞こえる。ああ、君のいう通りだ。ここで、俺は妻と出逢った。
 初冬の平日の昼下がり。第一印象は強烈だった。忘れられはしなかった。彼女と別れてぼんやりその残像を店のなかで追っていたら、なぜか銀色夏生の詩の一節が浮かんだことも覚えている。
 遠くの方から鈴の音が聞こえてくる。心のなかがおだやかになってゆき、顔からこわばりが消えてゆくのが感じられる。だんだんとあの日の思い出が像を結んで、作家の心のなかに投影されてきた。……
 ……予兆もなく、なんの変哲もない平日の、訪れて間もない冬の昼刻。作家はこのスターバックスにいて、カウンター席の真後ろになる丸卓に坐って、出世作になった長編小説の決定稿を仕上げているところだった。視界の隅で影が蠢いていた。ごそごそと、なにかを探しているような、落ち着きのまったく感じられない動きだった。最初は無視していたが、やがてどうにも気になって、遂に我慢できなくなって顔をあげて、そちらを見た。呻きに似た女性の声が耳へ飛びこんできたのは、ほぼ同時だった。どこかの会社の制服なのだろう、ベージュ色のタイト・スカートとジャケットを着た、背の小さな━━街角でふいに話しかけられたらすぐには視界に入ってこないぐらいの身長だった。もし私服だったら、中学生ぐらいに思えたかもしれない、と後年彼は妻に語った━━女性がカウンター席に並ぶスツールへ腰掛けようと奮闘(いや、無駄な努力だ、と目にした瞬間の作家は思った)しているのが見えた。
 呆気にとられてしばしそれを傍観していたが、やがて、当たり前のようにその疑問が生まれた。この女性はなぜそうまでして、その席に坐りたがっているのだろう? 他にも席は、十分に空いている。この時間なら、昼刻とはいえ席が完全に埋まることはない。正午を三〇分ぐらい過ぎると様子が変わってくる日もある。作家は時計を見た。まだそんな時間ではなかった。店内をざっと見渡してみても、客は四割程度の入りだ。その大半は、作家同様午前中から居坐っている、いわばこの時間帯の常連だ。
 いまや作家は横目で観察するのではなく、完全に頭をそちらへ向けて、女性の何度目かの挑戦を固唾を呑んで見守っていた。それは店内の他の客も同じだったようで、視線がそちらへ集まっているのを、背中で察することができたぐらいだ。
 女性はもがき続けていたが、やがてコツを摑んだようだった。
 まずスツールの低い背もたれとテーブルの縁に手を置く。と同時に、スツールの脚につけられた馬蹄状の足かけへ片足を掛け、弾みをつけて体を浮かした(なるほど、そうやって坐ると、なんだか優雅でかっこいいな、と頭の片隅で感心した覚えがある)。女性の体が浮きあがったが、ほんの束の間だった。足掛けへ置いた片足がずるり、と滑って座面の縁へ膝をしたたかに打ちつけ、……引き結ばれた唇から痛みを訴えかける声が漏れた。女性の味わっている痛みを、知らず共有させられるかのような呻き声だった。
 小さな溜め息をついて、何気なく店の奥に目をやった。幾人かの客はこれ以上見ていられない、という様子で、彼女から目を離して自分のことへ戻っていた。作家と女性の二人を視界の中央に置く位置に立っていた、モップで床を磨いていた長身で色白の、栗色の髪をした女性バリスタが、一連の場面を目撃していた。スツールから女性がずっこけた場面でバリスタは即座に背中を向けて、うつむきながら吹き出していた。背中がそれとわかるぐらいに震えている。
 そんな風な状況であっても、まだこの女性は諦める気配がない。彼女を突き動かすのはなんなのか。知りたい気分でもあったが……そろそろ助け船を出した方がよさそうかな。
 そんなことをつらつら考えていると、向かいに坐っていた赤のタートル・ネックを着た男が席を立ち、にやけ顔でカウンター席に歩み寄りかけた。それを認めた瞬間、なにかが作家の背中を押した。彼は迷うことなく立ちあがり、タートル・ネックの男を遮って(まるで男が透明人間でもあるかのように視界の外へ追い払って)、奮闘中で頬を上気させている女性に声をかけた。
心のうずきを感じながら、作家は、「あの……」と声をかけた。店の奥で口笛を吹いて茶化すような音が聞こえた。現実であったかどうか、いまとなっては定かではない。
 振り向いたベージュ色の制服姿の女性の目尻に涙が浮かんでいる。どきりとした。闇で閉ざされていた場所に一筋の光を見出したような気がした。また心がうずいた。今度は、そのうずきの原因がなんであるのか、よくわかった。それは久しく忘れていて、このまま風化させるつもりでいた感情だった。
 「こっちの席でも構わないなら、変わりましょうか?」震える声をどうにか抑えつつ、それだけの言葉をやっとの思いで振り絞った。
 ややあって(それがどれだけ長く感じられたことか!)女性は弱々しく頷いて、それまで以上に顔を赤くしてそそくさと、なぜか隣の席へ坐りこみ、両手で抱えるように持っていた、プレミアム・ホット・チョコレートの入ったマグカップを口へ運んだ。そうして二人は、ちらちらと相手の横顔に目をやりながらそこでの時間を過ごし、紆余曲折を経て数年後に結婚した。
 最初の一人が坐るまで、思い出に浸ってそのカウンター席を眺めていた。

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