第2103日目 〈【小説】『それを望む者に』 07/20〉 [小説 それを望む者に]

 想い続けるのは、遺された側のエゴ、か……。やりきれない思いを弄びながら舌打ちした。これからずっと独身を━━やもめを続けて亡き妻の魂を浅茅が宿で弔いながら夜を過ごすのもいいだろうさ。あの子だけが希望だったのだ。死者をいちばんに愛してなにが悪い? バリスタよ、悪いがそういうことだ。
 もう俺はなにも迷わない。過去よ、永遠に彼の人の腕の中で眠れ。未来よ、永遠に暗闇のなかに横たわって目覚めるな。もう迷いはしない。
 会社の退ける時間になったせいもあって、店内のざわめきが耳につきだした。昔なら妻と待ち合わせ、これからのデートに心弾ませていた時刻だったのにな。一人呟くようにいって、荷物をまとめて立ちあがった。マグ・カップを返しに行き、踵を返そうとして、あのバリスタと目が合った。どちらからともなく会釈して、作家は店を出た。
 涼風を孕む微風を肌に感じながら、、伊勢佐木モールを国道十六号線の方へてくてく歩いた。人並みを縫って、てくてく歩いた。宵闇が帳を降ろしつつあったが、空はまだ明るい。居酒屋やカジュアル・ファッション、携帯電話ショップの店員ががなり立てて、客寄せにこれ務めている。人々はその前を泰然と通り過ぎてゆく。行き交う人々の装いは軽やかだ。初夏がその気配をいや増しに増しながら、そこかしこへ忍び寄ってきている。ずっと歩いていると、少し汗ばんできた。帰りは電車を使おう、と決めた。
 歩いていたら、奇妙な感じに襲われた。首筋を針でちくり、と刺されるのに似た一瞬間の痛みを伴って、その“感じ”は訪れた。お前の興味を引く光景がすぐそこにあるぞ、と暗闇のなかで見知らぬ誰かが耳許で囁いてきたような、恐怖と好奇心を両立させてしまう悪ふざけめいた感覚。あたりを見まわしてみる。街並みにこれといった変化はない。が、人々の姿は輪郭を失い、大気のなかへ溶けこんでゆこうとしている。街路樹に(目立たぬよう)設置された小型スピーカーからは、それまでの小鳥のさえずりに変わってラテン語の典礼詩が、男の厳しい声色で流れてきた。シャツの下の汗ばむ肌をざらついた手で撫であげられるような感触がした。悲鳴が喉の奥から飛び出そうになったが、どうにか押しとどめられた。気附けば、周囲には誰もいない。ロッド・サーリングの『ミステリー・ゾーン』やリチャード・マシスンの『地球最後の男』の世界に迷いこんだような気がした。それは決して楽しいものではなかった。
 眼前の景色がさざ波のように揺らいで、空間が歪んだ。一陣の風が吹きつけて、彼の体を嬲って足をよろけさせた。眇(すがめ)で見ているうちに空間は直ってゆき、再び往来を行く人々の姿が戻ってきた。だが、なにかが違う、と本能が訴えてきた。さっきと変わらぬ光景なのに、なにか異質な要素が混入している。自分の身に危険をもたらすかもしれない。が、そうは思っても特有の好奇心に抗うことはできず、彼はそれを探し求めた。そして、人波の途切れた場所に新たな光景を目にして愕然とした。もっとも、これまでの経験を基にすればさして驚くことでもなかったのかもしれなかったが。
 妻と自分が、目の前にいた。二人は子供(息子だ、と作家は直感した)の手を引いて、両脇を守るようにして、並んで歩いている。さながらそれに付き従う影法師のようになって様子を窺っていると、時折妻と自分は互いに眼差しを交わして笑みあった。それが幻であろうがなかろうが、作家の心は嫉妬で煮えくりかえり、一方で砂を噛んだような苦々しさが生まれてくるのは留められなかった。だが、さりとてどう振る舞えばいいのだろう? 彼は己にそう問うた。このまま三人を━━殊に両脇の三人を観察し続ける以外にどうすれば? そう、そうするよりない。この幻が終わる瞬間まで。現実と空想の境目を見失って、それとわからぬまま生きる男のように。
 幻の三人と現実の一人は伊勢佐木モールをゆっくりとした足取りでそぞろ歩いた。いつしか大型書店の自動扉脇にある花屋の前で、三人は立ち停まった。妻が子供の前にしゃがみこんだ。作家も歩くのをやめ、白樫の影に隠れた。妻の傍らに立つ自分は中腰になって息子の頭に手を置きながら、幾つかの単語を口にした。息子の顔に晴れやかな色が浮かんだ。夫婦は立ちあがり、子供の手を引いて、モールの反対側の路地へ歩いていった。作家もそのあとを、なるべく自然に見えるように追った。他の人々に俺たちの姿は見えているのだろうか、と疑問を抱かないでもなかったが、いまはそんなことに構っている場合ではなかった。疑問を脇に押しやって、作家は三人の跡を追いかけた。
 三人は地下のライヴ・ハウスの看板を過ぎて、その斜め向かいにある甘味処(なが乃庵という店だ)の暖簾をくぐった。一緒に入ってゆきたい衝動に駆られたが、そんなことしてどうする俺? と思い直し、外で待つことにした。その姿を客観的に思い浮かべると、なんだかハードボイルドの探偵にでもなったような気分だった。そういえば、なんであの手の小説に出てくる探偵は、昼間から酒をしこたま飲んでしゃんとしていられるのだろう、と訝った。今度その類のジャンル小説を茶化した短編でも書いてみようか、と思い立ったが、知人の小説家のようにそれが原因で十年近く干されたらたまんないなと考え直し、すぐさまそれは記憶のなかのアイデア処理工場へ投げこまれた。
 店の前を行ったり来たりしているうち、この甘味処へ入ったことがあるのに気がついた。確か、戦後すぐから営業を始めて、以前妻と来たときは老夫婦二人で切り盛りしている上に、満席だったのもあり、だいぶ待たされた覚えがある。
 ━━三十分経っても、彼らが出てくる様子はなかった。路地を奥へ進んだところに、半地下のラーメン屋がある。そこへ行って腹ごなしでもしてこようかな、と何度か考えたが、その間に三人が出てきたらどうする? 作家はその可能性にがっくりと頭を垂らして、重くなった足取りで店の前を行ったり来たりし始めた。
 暖簾の向こうの磨りガラスに黒い影が映った。出てくるのかな。その矢先、作家ははたと思い至った。
 すでに亡き妻との再会は果たされている。互いに相手は見えて、肌が触れ合いもした。妻とそうだったということは、いま一緒にいる自分にも、俺の姿は見えるということだろう。もちろん、息子にも、目の前で突っ立っている父親(俺だ)の姿が見えるはずだ。これはもしかしたら、相当危険な状況なのではあるまいかもう一人の自分と向き合うことがどれだけ危険を伴うか、ポオが『ウィリアム・ウィルソン』でじゅうぶん指摘しているではないか。目前に迫った危険を察知でき、回避できるのなら、そうするのが賢明だろう。
 伊勢佐木モールの方へ踵を返す。ここを抜け出さなくちゃ。重くなった足を前に振り出そうとする。
 背後で甘味処の扉が開く音が聞こえた。思わず振り返ってしまった。息子が、自分が、最後に暖簾を片手であげて妻が出てきた。扉を後ろ手で閉める妻に、息子がまとわりつく。典型的な、絵に描いたような家族に映った。あのまま妻が生きていれば、近い将来現実のものになっていたかもしれない光景。実の家族の元から脱出して以来、求めてやまなかった、ぬくもりと信頼と絆の上に築かれた、守るに値する自分自身の家庭。だのに━━嗚呼、妻はもういない。眼前の妻は、生きていたときそのままの妻の姿をまとって現出した幻……それは俺の死期が迫っているからかもしれない。三人の口からもれた笑い声が、作家には死の宣告を告げる鐘の音に聞こえた。
 彼は、路地の先にあって、人工の輝きが奇妙な現実感をもたらしている伊勢佐木モールへ、足を向けた。途端にふらついて棒立ちになり、くるっ、と回転して仰向けになり、そのまま崩れるように倒れた。すると、普段はあまり目にしない光景が広がった。地表に近い位置から見あげていると、路地の両脇から空を目指して建つ雑居ビルとデパートの屋上の縁の間に、暮色を増した宵闇空が、きゅうくつそうに収まっていた。動物園の動物たちも檻のなかから、こんな風に空を見あげるのだろうか、と作家は思った。披露をたっぷり塗りこめられた溜息を残して、静かに目蓋を閉じる。
 どこかから誰かの、小さくて短い、鋭い叫びが聞こえた。女性の声だとはわかったが、こうして倒れてしまってはどちらの方向から聞こえてくるかまではわからない。次いで、足音が迫ってきた。早歩き以上小走り未満の足音。路面を伝って響いてくる音は、かすかに振動してコンクリートの下から彼の鼓膜を刺激した。倒れたままの作家の傍らでそれは停まった。足音の主が衣擦れの音をさせながら、屈みこむのが感じられた。好奇心も手伝って、目を細く開けてみる。
 よかった、と嘆息した。予想通りの人物━━妻以外の誰がいるというのか━━がいて、彼の顔を覗きこんでいる。心配と不安を隠しきれぬ面持ちで、夫の顔を覗きこんでいた。作家はそんな妻を、愛情と恐怖の入り交じった眼差しで見あげた。額にかかる髪をそっ、と払ってくれる仕草が、いまはとてもつらい。執筆に倦んでリビングや和室で寝転がっていると、どこからともなく妻が現れて膝枕をしてくれながら、こんな風にそっと髪を払ってくれたのを思い出す。いまの妻の仕種は、以前のなにげない小さな、でもすべてが幸福に彩られていた日常の一つ一つを、否応なく連想させる。髪を払うと妻は作家の両肩を摑んで、軽く揺さぶっていた。さっきよりも彼女の顔は近くにある。
 さて、そんなときにもう一人の自分と息子がどうしているかと思えば━━眼球をぐるり、と動かしてみたが、どこにも姿が見えなかった。もしかしたら妻のすぐ後ろに立っていて、自分のところからはたまたま見えないだけなのかもしれない。それならそれでいい、彼らが俺の視界に入っていないのは事実だからな。満足と安堵の溜息が知らずにもれた。
 だいじょうぶ? 珠を転がすような妻の声が降ってきた。懐かしくて、四六時中聞いていたって飽きはしない妻の声。だがいまはそれよりも恐れの方が若干優っている、まるで天のお告げのような妻の声。重ねて彼女は訊いた、だいじょうぶ? それが作家の耳には、「愛してる?」という言葉の別の表現のように聞こえたのだったが。
 目の前がゆっくりと闇に閉ざされてゆく。彼は妻の名前を呼んだ。ここにいるよ、と相手の声が聞こえた。これが疑う余地のない現実であったならどんなにか救われていただろう。開いた唇から出るのがゼイゼイいう喘ぎ声ばかりなのにいらいらしながら、作家はそう思った。死んだはずの妻とこんな風に会話しているなんて、正気の沙汰じゃぁない。気が狂ったわけでもないのに(でも、本当に?)幻と現実の区別ができなくなってしまうなんてなぁ……。ぼんやりとそんな考えに耽っていると、視界が隅の方から白く濁ってぼやけだして、徐々に中心へ浸食しつつあった。妻の顔もはっきりしなくなってきた。彼は妻の名前を再び呼んだ。それに答えるように、あたたかな掌が、髪の払われた額へ置かれた。「なあに?」と妻の声。
 「やめろ。お前は死んだんだ」と作家はうなされるようにいった。妻の傷ついた顔がちらついたが、表情をしかと確かめることはできなかった。でも、それでよかったのかもしれない。見てしまっていたら、作家は後々まで、そのときの妻の顔を記憶から拭い去ることができなかったかもしれないから。そう、この先の運命がどうなっていようとも。「俺を遺して、たった一人で逝ってしまったんだ。なのに、なんで……」
 あなた、と妻がいった。耳許へ口を寄せて、結婚する前のように作家の名前を、続けて呼ばわった。その声は涙でかすれているように聞こえて……刹那のあとで、頬に熱い雫がこぼれ落ちてきた。導かれたかのように、作家の両目からも涙がしとどにあふれて流れ出した。唇を噛んで眉間に皺を寄せ、ぎゅっ、と目蓋を閉じても、涙の奔流は止まりそうにない。
 妻が、あなた、と震える声でいいながら、舐めるように唇を重ねてきた。肉体の熱さと重みをはっきりと感じられる口づけだった。やがて唇が離れ、妻がいった、しばらくゆっくり眠って、と。作家は考える間もなく、頷いた。
 「まだわたしたちの未来は変えられる」と妻はいった。眠る子供へ語りかける母親を思わせる口調だった。「例え結果がどうなろうと、まだ私たちにチャンスはある」
 作家は最後まで聞くことができなかった。〈眠り〉が歓待した。

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