第2104日目 〈【小説】『それを望む者に』 08/20〉 [小説 それを望む者に]

 「起きた?」
 目を開けると、すっぴんの妻の顔が視界を占めていた。かわいいな、と心のなかで作家はにやけた。思わず強く抱きしめて押し倒したい欲望にかられたが、午睡の前にたっぷり運動した疲れがまだ残っているようだ。無理はしないが肝心だ。今夜の分を温存しておかなくては。
 「ずいぶん寝ちゃったようだな」
 頭を動かしてキング・サイズのベッドの上から西の方角を眺めた。入り陽が海を赤染色に染め、空を濃藍色に彩っている。モルディブへ新婚旅行に来て、四日目の夕暮れである。
 膝枕をしてくれていた妻が、屈んで夫の額へキスをした。「モルディブに変えてよかったね」
 手の甲で目をこすって欠伸をした作家は頷いて、
 「海面があと一メートル上昇したら、国土の八割が水没するらしいからな、この国は」
 「本当の最後の楽園かもね。パリは残るもモルディブは消える、か。温暖化を食い止めることはできないのかしら?」
 作家はちょっと考えて、頭を振った。「マイナス六パーセントだってやらないよりはやった方がいいんだろうけれど、焼け石に水だと思うな」妻の首へ手を回してかき寄せ、唇へ自分の唇を重ねた。「いますぐ人類が死滅して、この星自身に治癒させるしかないよ。それでも間に合わないかもしれない」
 「でも、希望は捨てちゃダメ」夫の唇へ人差し指を軽く押し当てた。いたずらっぽく微笑みながら妻はいった。「私たちが結婚できたのも、最後まで希望を捨てなかったからでしょ?」
 ちょっとためらってから、ああ、そうだったな、と作家は小声で諾った。
 水上コテージの杭にぶつかった波が砕ける音が、床の下から聞こえた。
 「なにか聴く? ━━ブラームスとピアソラ、どっちがいいかな?」
 「いったいなんだってまた、そのチョイス?」
 「だって、これしかなかったんだもん」妻が頬をふくらませて抵抗した。
 まぁいいか、と夫は、チョイスについてそれ以上の質問はやめた。「ブラームスは、何番で、誰の?」
 「四番。えっとね……」妻は思いきり腕を伸ばして、持参したCDを摑もうとした。届かないかな。気を利かせて頭を浮かせようとした。そのままでいて、という妻の訴えめいた声がした。納得した。いま頭を浮かせたら、彼女は重心を失ってベッドから転げ落ちる羽目になるだろう。で、問題のCDは、デ・ラ・メアとウッドハウスの単行本の間に挟まっていた。これだって、いったいなんだってまた、そのチョイス? である。
 「チェリ、ビ、━━ダッケ」少しいいにくそうだった。「そんな名前の指揮者」
 「そうか。━━うん、それにしよう」
 「頭どかしてくれてもだいじょうぶだよ」
 膝枕を解いて、妻はコテージに用意されていたCDラジカセの方へ歩いていった。
 リゾート地で聴くブラームスか。しかも、指揮はチェリビダッケ。重厚といえば聞こえはいいが、コクがありすぎる。もたれるのを覚悟で聴く他はない。少しして、拍手が始まってブラームスの交響曲第四番ホ短調が流れてきた。
 妻がおもむろに脱ぎ始め、ビキニの水着姿になった。きゅっ、とくびれたウェストの上下然るべきところに、程よく肉がついていた。背丈は中学生でも、肉体は大人の女である。バルコニーへ出た彼女は振り返って、「ちょっと泳いでくる」といって、その場から海へ飛びこんだ。あがった水飛沫の音がブラームスと奇妙な調和を演出した。
 ベッドに横たわったまま、白いレースの蚊帳が吊られた天井を眺めていると、妻が子供を産んで三人して海岸を散歩している光景が、自分でもびっくりするぐらい鮮明に、はっきりと焦点を結んだ映像となって浮かんだ。近い将来実現するだろう、と満足げに頷いてみせる。そうしてベッドから降り、バルコニーへ足を向けた。
 モルディブの海と戯れている妻は、泳いでいるというよりも溺れているみたいだ。だが、ああ見えて彼女はちゃんと泳いでいる。はしゃぎが過ぎて、溺れているように見えるだけだ。
 「じきに夕食の時間だしさ、夜の海は危ないから、もうあがったら?」まるで保護者だな、と自嘲しながら、作家はいった。
 「わかったぁ」間延びした妻の声が、闇のなかから返ってきた。
 コテージの壁へ背中をくっつけて、まわりを眺め渡した。夜の闇は海と空のほとんどを支配している。水平線の、日没点のあたりだけが、鮮やかなオレンジ色に染められていた。東の空を打ち仰ぐと、映るのは、天空を埋め尽くす無数の星々の、遠い昔の瞬きだけ。その光景に胸が圧迫されるのを覚えて、再び西の方へ目を戻した。馴染みの光景に触れて息苦しさから解放された。離れた海上に浮かぶコテージの灯りと、島をつなぐ桟橋の両端に設置された灯りが、星空に畏怖したあとではとても安らいだ景色に感じられた。
 バルコニーから海中へ伸びる階段を、四肢から水をしたたらせた妻があがってきた。軽快な足取りで、ご機嫌な鼻歌まで披露している。
 インスマスの寂れた街へダゴンが上陸する様子が脳裏に浮かび、笑ってそれを退けた。ホラー小説ばかり書いていたせいで、そんな想像はすぐ湧いてくるな。そう、作家は結婚直前までホラー小説を量産しまくっていた。そろそろマンネリ化し、このジャンルへ見切りをつけようとしていた矢先に妻と出逢い、かねてから暖めていたユーモア小説の企画が通り、文字通り“新生”を果たそうとしていたのだった。けれども、そうやって、自分がいちばん書きたくてならなかったジャンルへ移行したとしても、遅かれ早かれ出版社はジャンル作家のレッテルを貼りたがるだろう。そうすれば俺はまたそこから逃げるように別のジャンルを模索し始めるんじゃないのかな。
 でも、そもそも作家はデヴュー前からユーモア小説志向で、この種の小説を書きまくってなお倦んで疲れることを知らず、筆が荒れたりやっつけ仕事をしたことはなかった━━錯綜してなお整然としたプロットを持ち、(それこそ自分の分身と思えて愛情を注げる)キャラクターたちが上へ下へのどたばた騒ぎを繰り広げる類の小説を、自分が読みたくてたまらない小説を、馬車馬みたく書き続けてきたのだ。それなのにホラー小説作家とレッテルを貼られるようになったのは心外だった。事の起こりは、作家が駆け出し時代に書いた(多少はホラーの要素もある)中編小説が、新進女優を主役に据えて鳴り物入りでドラマ化されたのがそもそもの始まりだったのだ。DVD化もされ、地上波やCSで再放送が続いている作品だが、これほど憎たらしくて、題名を口にするのもおぞましい、キャリアから抹殺したい作品なんて、滅多にあるものではない。事実、原作となった小説は単行本化されて版を重ね、文庫にもなったが、作家の嫌悪が頂点に達した時期に絶版となった。古書価がずいぶん高いと聞くけれど、そんなのは作家にとってどうでもいい話だった。そう、古書店で売買されていたって、こちらの懐へ金が入るわけでもない。勝手にさせておけばよいのだ。けっ。
 ブラームスは響きを重ねてゆき、第四楽章のクライマックスへ昇りつめようとしている。それを聴きながら妻の頬へキスして、耳許で囁いた。
 「ピアソラは夕食のあとで、腹ごなしのスポーツのときに聴こう」
 すぐに意を察して、妻は肘で夫の腹を小突いた。くまのプーさんみたい、とニコニコしながら、いつまでも撫でていたこともある、ぽっちゃりせり出した夫の腹を。
 「えっち。でも、大好き」
 妻がシャワーを浴びてイヴニング・ドレスへ着替えるのを待つ間、二人分のキール・ロワイアルを作った。
 グラスを傾けあう二人の傍らで、ブラームスは絶後のコーダを描き、厳粛なまでの音の大伽藍を築いて終わった。心の火照りを鎮めるかのように、波音はいつまでもおだやかであり続けた。
 はっきりいって、モルディブで聴くブラームスは、どこか浮いている。

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