第2105日目 〈【小説】『それを望む者に』 09/20〉 [小説 それを望む者に]

 はっきりいわずとも、モルディブで聴いたブラームスはどこか浮いていた。
 その物音で目を覚ます直前、作家はそんな考えを弄んで、心のなかでにんまりとした。
 薄目であたりを見まわす。飾りっ気のない天井と壁が迫ってくる。息が詰まりそうな苦しさを覚えた。清潔な白い空間のなかで、自分の体が横たえられているのに気附いた。死体安置所みたいだな、と真っ先に思った。意識の回復してくるにつれて、でも、俺はまだ死んじゃいないようだ、と信じられるようになった。死後の世界がどんなものかは知らないが、俺はまだ生きている。こうして隣でごそごそ誰かがやっている音も聞こえるし、軽いしびれが走るけれど腕も指もちゃんと動かせる。ここがどこなのか、如何にしてこの部屋で身を横たえるに至ったかを思い出そうとした。……整理しよう。えーっと、……路地の裏の甘味処から息子(推定三歳から四歳と覚しき、妻と俺の間に生まれた息子)を連れた自分が出てきた。足許がよろけて倒れこんで━━妻が走り寄ってきて、……気絶して夢を見た。新婚旅行で行ったモルディブで過ごした、幸福だったひとときの夢を見た。
 作家は唸り声をあげて、ずきずきする頭で半身を起こし、部屋のなかを見渡した。ベッドの脇にしゃがみこんで作家のトート・バッグを開きかけていた男が、びっくりした表情でこちらを見ている。
 「誰ですか?」鋭くて棘のある口調になっているのがわかった。「それ、ぼくの荷物ですよね?」
 男が憤然とした勢いで立ちあがった。紅潮した顔で鼻息が荒い。豚が鼻を鳴らしているみたいだ。襲いかかってくるか、と心配が心のなかをよぎったのは、いうまでもない。
 トート・バッグから手を離した男がこちらへ一歩を踏み出した。漫画の登場人物じみて、唇がわなわな震えている。作家はベッドに坐りこんだままなのにもかかわらず、とっさに身構えた。それを見るや男は大きく目を剝いて踵を返して扉へ駆け寄った。ノブへ手をかける直前、お約束のように扉が引かれ、男はバランスを崩して前方へつんのめった。扉を引いたのは女性だった。作家にはとても見覚えのあるベージュ色の制服を着ていた。女性は体をよじって、正面から倒れてくる男を避けた。男は素早く立ちあがると顔を背けて、脱兎の如くに走り去った。女性はその背中へ向けて、「待ちなさい!」と叫び、近くにいたらしい同僚たちへ「そいつが例の盗人よ!! 捕まえてっ!!」と告げた。━━そうして廊下に喧噪が生まれ、潮が引くように静かになっていった。
 狐につままれた顔つきで一連の様子を眺めていた作家は、女性がこちらを振り返ってすぐに柔和な顔を見せたとき、やっとここがどこなのかを合点した。そうか、ここは大通り公園に面した横浜ふれ愛病院だったか、と。
 腑に落ちた思いがした。倒れた自分を介抱したのが妻だったなら、この病院へ運びこまれるのは自然な成り行きであっただろう。ここは生前の妻が、結婚してからも一年半の間、事務員として━━いま目の前にいる女性と同じ制服を着て━━働いていた病院なのだから。倒れた場所からいちばん近いのがここでなかったとしても、おそらくこの病院へ担ぎこれていたに違いない。
 女性が、ファスナーが半分開いたままのトート・バッグを手にして(数瞬とはいえその重さに女性が顔をしかめたのを、彼は見逃さなかった)、作家へ手渡した。「なかにあったもので、なくなっているものはありませんか?」
 いわれるがままに作家はバッグのなかを検分した。財布の中身も確かめて、大仰に溜め息をついて頷いた。
 「全部ありますね……」或る意味に於いて(いや、窮極的な意味に於いて)財布の中身や携帯電話よりも大切なノートをぱらぱらめくってみる。「うん、だいじょうぶですね」筆記用具もすべて揃っていた。
 安心した表情になって、女性がいった、「あの男、病院荒らしなんですよ。今日は捕まえられるかな」
 作家は体の向きを変えて、ベッドの端から両足を降ろして、女性を見あげた。相手がくすり、と笑んだ。
 「やっぱりそうだったんですね」と彼女は、壁際に並んだ丸椅子の一つを引き寄せて、それに坐りながらいった。「カルテを見て、あれっ、って思って。それで来てみたんです」
 一瞬、自分のことを小説家の何某だと知って顔を見物にやってきた読者なのかも。淡い期待を含んだ疑念が脳裏をかすめた。だが、すぐに自己嫌悪混じりの嘲笑でそれを一蹴した。そんなことがあるもんか、と。もうかれこれ二〇年ばかり作家稼業を続けているが、小説家の何某先生ですよねサインしてくださいナンバー・ワンのファンなんですご著書に是非サインをお願いします、なんていわれたことは一度もない。っていうか、ふつうそこまで顔が知られて本が売られている作家なんて、まさしく稀少生物そのものである。顔写真も出さず自分の仕事についてあまり口外したがらない、というのも善し悪しだな、と口のなかで呟いて、少々へこんだ。
 まぁ、それはともかく━━
 「そうしたら病院荒らしに遭遇した、と?」
 肩をすくめて、「すごい偶然ですよね」と女性が苦笑した。
 しばしの沈黙のあとで、さっきから抱いていた疑問を口にした。
 「あの、どこかでお会いしていますよね?」むろん、そんな記憶はない。
 「ええ」と女性が頷いた。「覚えていないですよね。一回しか顔を合わせていませんもの」
 作家は曖昧に諾ってから、小首を傾げた。その一方で、脳みそはフル回転をして、目の前の女性が誰であったかを思い出そうとしている。けれども、思い出そうとすればするほど、真実は意地悪い高笑いを響かせて遠ざかってゆく。記憶の糸を探る作業はいつだって意地悪だ。もどかしい気分が、作家の胸をむかつかせる。吐き気がこみあげてきそうなむかつきだった。
 そんな彼を見て、女性は「背が小さくて可愛らしい奥様に連絡して、迎えに来てもらいましょうか?」と提案した。「携帯の番号はまだ変わっていないのかしら?」
 はっ、と息を呑んで、作家は女性を見た。そうか、とようやく思い出したのだ。結婚して一週間ぐらい経った平日の夜、妻の同僚たち有志が開いてくれたお祝いの席に招かれたときのことを。その席で妻に腕を引っ張られて料理を口にする暇もないまま彼女の同僚たち(事務局の女性陣ばかりでなく、看護師や医者[もちろん全員女性]も忙しいなかを出席してくれていた。そのうちの三分の一が、宴が果てるやぞろぞろ病院へ出勤していったのが印象的だった)に挨拶するなか、最後の方で紹介された人こそ、いま目の前に立っている女性ではなかったか。嗚呼、しかしながら、名前までは覚えていない。申し訳ない。事実とは得てしてそんなものだ。記憶もまた、そんなものである。
 ━━連絡して迎えに来てもらいましょうか? 女性の台詞が残響を伴って、心のなかで繰り返された。あ、そうか。妻の同僚たちの誰か一人にさえ、妻がバスの事故で亡き人になったのを知らせていなかったんだな。作家は、時間は自分で思っているよりもずっと早く流れていることに痛感させられた。人生の伴侶がみまかって今日で十一日目、いろいろ慌ただしくて普段付き合いのない(とは彼が勝手にそう思っているだけの話だったが)人々へそれを知らせるのを忘れていた━━というのは、どんなに心をこめたって、結局は言い訳にしかならない。
 わずかの逡巡の後、彼はかつての妻の同僚の女性へ、幾分か口ごもりながら妻の死を伝えた。女性が虚を突かれたような表情になり、天井の一点を睨みつけたかと思うと、大きくて長い溜め息を吐いた。虚脱と哀しみが溜め息を飾り立てている。小刻みに震える声でお悔やみの言葉を述べた女性が、続く言葉を探して何度も口を開きかけてはつぐんだ。その永遠に続きそうな反復行動をやめさせる意味も含めて、作家はスターバックスのバリスタに返したのと同じ言葉を口にした。女性の、口を開きかけてはつぐむ行動は終わった。その代わり、今度は彼女の喉の奥から嗚咽がこみあげてき、病室に低い啜り泣きが満ちた。
 気まずい状況だった。妻が死んだという事実を受け容れることはできたようだ。おそらく、親交のあるなしにかかわらず、病院に勤める者ならそれを受け容れるのは馴れているかもしれない。だが、自分はどうだ? 妻の幻影(幽霊、亡霊。うん、なんとでもいってくれ)に悩まされる側にいる自分は? 生きていた頃と変わらない妻の姿を何度も見、会話し、触れもしたのに、どうやって彼女の死が信じられるというのか。現実なのか、目覚めの悪い夢のなかにいるのか、どっちつかずの状況にいるのが嫌だった。旅行会社と搬送先の病院の担当者と交わした電話越しの会話も、葬儀場で浪費した多くの言葉も現実にあったこと。動きも喋りもしない姿となって白木の棺に入って帰宅した妻を見たことも、鉄箸で骨の欠片を一つ一つ骨壺へ収めてゆく光景は、紛れもなく現実にあった出来事だ。それなのに、妻は未だ夫の前に現れて、生きているかのような振る舞いを見せることがある。━━啜り泣きたいのはこっちだ。
 そうして、いま不意に思い立った。━━こうも彼女が自分の前に姿を見せるのは、自分の妻恋しや妻の夫恋しやの感情ばかりでなく、彼女自身が生に執着しているからではあるまいか、と。だって妻がいっていたではないか、例え結果がどうなろうとも、まだ私たちにチャンスはある、と。これってそういうことなのではないか?
 低く続いていたしゃくり声が落ち着いた。女性はこちらへ背を向けて鼻をかみ、ハンカチで、泣き腫らして赤くなった目を押さえて、こちらへ向き直った。
 「明日は休みなので、お焼香へ伺っても構いませんか?」
 「ええ、もちろん」と作家は快諾した。安堵した気分が自分のなかに満ちてゆく。「家はわかりますか?」
 「毎年年賀状が届いていますから。住所は━━」
 「ええ、変わっていませんよ。きっと妻も喜びます」
 パトカーのサイレンが近づいてきた。作家は時間を確かめようと右手の腕時計へ目をやった。なにもなかった。バンドのあとだけが、薄く残っている。左手を念のために見た。なかった。枕の脇にも、荷物のなかにも、部屋のどこにも、時計はなかった。作家は舌打ちした。女性と目が合って、思わず口から発しかけた悪態の言葉を呑みこんだ。
どうしました、と訊ねられ、作家は説明した。女性は途端に身を翻して扉を威勢よく開け、大きな音をたてて閉めた。廊下を走ってゆく彼女の足音と誰かを呼び止める声が、扉越しにもよく聞こえた。
 グッド・グリーフ、と呟きながらベッドを降り、作家は窓辺へ歩み寄った。ぴったり閉じられていたカーテンを細く開けて夜の街を眺めた。窓の下へ視線を移すとパトカーが二台、病院の表玄関の前に停まっていた。赤い回転灯が周囲を威圧するように回ったままだった。折しもさっきの男が警官に左右を固められて連行されてゆくところだった。更にそれを見物していると、件の女性が猛然と追いすがってきて、警官を呼び止めた。かなりの剣幕でまくし立てている。警官の一人がずいっ、と男に詰め寄り、男がポケットのなかから出した物を手にとって、女性へ渡した。一頻りの問答のあとで女性は建物の影に消えた。ああ、戻ってくるな、とぼんやり思っていたら案の定、二分もしないうちに女性が部屋へ飛びこんできて、時計の確認を求めた。作家がそうだ、と首肯すると彼女は窓を開け、眼下の警官たちに叫んだ。腹の底から難なく絞り出された、張りのある声だった。まるで舞台の経験がある人のように、どれだけ声量をあげても割れることなく遠くまで響きそうな声に、しばし作家はその場の状況を忘れて聞き惚れてしまったものである。
 斯くして━━ミッション・コンプリート。ホレイショ・ケインだったら無線で「クリア」と、あの渋い声でいっていたことだろう。ややあって二台分のパトカーのサイレンが大通り公園界隈に鳴り渡り、急速に遠くなっていった。
 そのあと、外来受付で手続きを済ませ、女性と、妻の同僚でまだ病院に残っている(なおかつ手が空いていた)事務員二人に見送られてタクシーで帰宅した。その車中で彼は、肝心なことを訊くのをすっかり忘れていた、と後悔した。
 誰が俺を病院へ運び、カルテの記入に手を貸したのか? 名前や住所なら財布に入っている住基カードを見ればわかる。しかし、見せてもらったカルテには身内しか知らないことも、幾つか記されていた。あの病院にかかったことはない。ならばいったい誰が、そんな細かい点まで知り得てカルテに記入することができるのか。
 そりゃぁ、もちろん━━。
 極めて現実的な答え(他の病院の診察券が財布のなかにある。それを見つけた誰かが、その病院からカルテのコピーを取り寄せた。でも、そんなことができるのか?)と、非現実的な答え(そんなことができるのなんて妻しかいないじゃないか! 他に誰がいるんだい?)が当たり前のように交錯した。思考が引き裂かれ、正気を失いそうだった。皮膚の下を冷気が走り、上下の歯をかち鳴らすほどの寒気を覚えた。
 タクシーの窓に自分の顔が映っている。目の下は落ち窪み、頬は肉がごっそりと削げ落ちていた。土気色をした自分の顔が、窓の向こうから見つめ返してくる。本当の俺の顔じゃない。ああ、わかっているさ、そんなことは。スターバックスのバリスタの声が思い出されてくる━━お露さんに取り憑かれた新三郎みたい……外見でそういったわけじゃなくって、そんなオーラがでている、って感じ。作家は固く目を閉じて、窓へ頭をもたせかけた。だが目蓋の裏には、やつれてこちらを見つめる自分の顔が焼きついて、しばらくは消えてくれそうもない。暗がりのなかでいきなり銃口を突きつけられた気分だ。
 予想進路を大きく外れて、今夜半にも房総半島に上陸、と報道が改められた台風四号が突然の大雨を、横浜にも降らせている。窓ガラスに飛沫がぶつかり四散し、タクシーのスピードに引きずられるように水滴が後ろへ流れてゆく。その様を焦点の定まらない目で見ながら、作家はそっと頬を撫でた。平気だ、まだ肉はくっついている。痩せこけてなんかいない。
 窓に頭をくっつけたまま、モーツァルトのモテット《エクスルターテ・イウビラーテ》の一節を、口の中でそっと呟き、唱えた。Tu virginum corona,Tu nobis pacem dona,……純潔の王冠たる汝よ、われらに平安を与え給え……。
 タクシーは悠然と国道十六号線を、昼間作家が歩いてきたのと逆にたどって進む。

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