第2106日目 〈【小説】『それを望む者に』 10/20〉 [小説 それを望む者に]

 エントランスの車寄せにタクシーが停まった。ぽしゅん、と乾いた、拍子抜けするような音をあげて後部扉が開け放たれると、暴風の低い唸りが耳を聾した。生々しくて湿った重低音が耳のなかで渦巻き、奥まで刺激した。腕にもべったりとした湿気が貼りついてくる。不快指数が一気に上昇した。さっさと精算を済ませてタクシーを降りると、待っていました、とばかりに彼の背後で扉が大きな音をたてて閉まった。ガラス張りになったエントランス・ホールから、台風が接近する外の世界の闇のなかへ消えてゆく赤いテール・ランプを見送った。ホールと隣り合わせにある宅配ボックスと郵便受けに寄ってみたが、DM以外の郵便物はなかった。他は、濡れないようビニールで覆われた新聞の夕刊が入っていた。疲れた足取りでエレヴェーターまで辿り着いて、箱に乗りこむと自分の住戸のある階のボタンを押し、壁に背中をくっつけて目蓋を閉じた。波乱に満ちた一日の疲れが両肩にのしかかってきた。それが却って妻の幻影をここに出現させるのではないか、と恐怖し、また期待もしたが、彼女は現れなかった。彼は妻の名前を呟いて、目尻に浮かんだ涙を拭った。
 目的の階へ到着すると人気のない外廊下をぐったりして歩いていった。不動産会社に勤めていた頃、特に深夜まで残業して疲れ果てて帰ってくるときは、この外廊下がやけに長く感じられたものだった。このまま永遠に玄関には辿り着くことはないのではないか、とさえ訝ったことも、二度や三度ではない。でも、家に帰ると誰かがいて、「おかえり」といって出迎えてくれるのはいいものだ。作家はそんな小さな幸せがいつまでも続く、と盲目的に過信していたのを恨めしく思った。愚かだったな、といまになって痛感する。家に帰ったって妻はもういないんだ……そう、実体があって、一緒に老けてゆくことのできる生きている妻は。
 作家(と当時は婚約者だった妻)が購入したのは、南西のいちばん端に位置する日照も風通しも眺望も申し分のない住戸で、そこの玄関扉へ至るまで外廊下は三度折れ曲がっている。幸いにして今日は雨曝しになっていない外廊下を歩いて、作家は一歩一歩部屋へ近づいていった。三度目の(最後の)角を曲がって顔をあげた。足がすくんで、その場から動かなくなった。
 いるはずのない人がそこにいた。存在すらするはずのない人が、そこに立っていた。伊勢佐木モールで目にしているとはいえ、それが存在の根拠になるわけのない人が、六メートルばかし前にいた。あれは、俺の生き霊か? 本格的にポオの小説の世界に足を踏み入れた、ってわけか? いや、この奇妙な感覚を十全に表現するならば、ロッド・サーリングの『ミステリー・ゾーン』の世界の住人になった、というべきか?
 目の前にいる自分は伊勢佐木モールで目にしたときと同じ服装で外廊下の、胸のあたりまである壁に肘をつけて、少し乗り出し気味になって、台風の接近でいつもより静かで不安げな夜の街を、楽しそうな横顔で眺めている。手にはバドワイザーの缶が握られ、蛍光灯を背にしているせいか、缶の表面の赤と白のロゴがくすんで映った。
 立ちすくんだままの作家を横目で捉えると、その人━━もう一人の自分はこちらへ頭をめぐらせて、含むような笑い声をあげて作家を迎えた。「待っててくれ、いまあの子を呼ぶよ」
 自分が玄関扉を開けてなかにいる妻を呼んだ(「おぉい、帰ってきたよ」)のを、作家は映画でも観る面持ちで見守った。低予算に悩まされながら短期間で作られた安直な映画、場末の映画館でさえ上映したがらないようなスラップスティック・コメディ。妻の返事がなかから聞こえた。目の前に自分がいて、遅からず彼女も顔を出すだろう……それが、絶えることなく繰り返される日常の延長線上にある行為として。仕事帰りの亭主を出迎える妻による、当たり前の日常の一コマとして。
 作家は三人が一堂に会す、刹那の後に実現するであろう奇異な光景を想像して、胸を押し潰されそうな感覚を味わった。彼女が顔を出すまでの数十秒が、途方もなく長い時間のように思える。時間がコンマ何秒かの感覚で刻まれてゆくごとに、心の底から止め処なく哀しみがこみあげてくる。わずかでも気を許したら、堰を切ったように涙があふれてきただろう。が、それをどうにか抑えられたのは、こちらをすくませるような眼差しで見ている、一メートルと離れていないところに立つ自分の存在だった。手には相変わらずバドワイザーの缶が握られている。作家の視線がそれに注がれているのに気附いて、自分が相貌を崩して缶の口を拭って差し出してきた。
 「飲むかい? これ、好きだろう? そうだよな、あんたは俺なんだから」
 震える手で缶を受け取り、飲んだ。口の端から中身が少しこぼれて顎を伝い、首筋を流れて鎖骨に落ちてシャツを濡らした。バドワイザーの軽い味が喉をすり抜けてゆく。その味さえ作家には現実なのかどうか、よくわからない。
 そんな様子をにたにた笑いで眺めながら、自分がいった。「安心していいよ。俺はあんたのドッペルゲンガーでも生き霊でもなんでもない。俺はね、あの子の想念が生み出した〈像〉なんだ。モールで一緒だった子供もね」頭をぐしゃぐしゃ掻きむしりながら続けた。「ま、イドの怪物みたいなもんかな……いや、ちょっと違うか……」
 缶を握る手に力が入り、軽薄な音を立ててアルミがへこんだ。
 開け放してあった玄関扉の奥から妻の声が聞こえた。こちらへ近寄ってきている。玄関扉の方へ目をやって向き直ると、自分は「じゃあ、俺、消えるよ」といって、ぱっ、と消えていなくなった。そこに人がいた証拠になりそうなものは、どこにもなかった。ただ、相手から受け取ったバドワイザーの缶は中身を三分の一ほど残したまま、作家の手のなかにある。
 強まってゆく雨足と激しくなるばかりの風に嬲られる一方の夜の街を、H.P.ラヴクラフトが描き続けた荒廃と悪夢の統べる異界の街を目の当たりにしたような顔で呆然と見おろしていると、なにやらやわらかくてあたたかいものが背中へ、ぽしゅん、と押しつけられた。振り向くと、生前となんら変わらぬ笑顔で見あげる妻がいた。
 「ひゃふん、本物だぁ。えへ、おかえりなさい」
 「あ、━━ただいま」
 「なんて顔してんの? ……そりゃいいたいことはわかるよ。でもね━━お、ビール」
 そういって缶をひったくるみたいにして奪うと、妻は背を反らせて中身をごくごくと飲んだ━━飲み干した。喉が上下するのを、作家は目をすがめて見つめた。
 ぷはあっ、と満足そうな声を洩らすと、妻は夫の首に両手をまわし、思い切り伸びをして、彼と唇を重ねた。彼女の体から立ちのぼる甘やかな香りとビールの残り香が鼻腔についた。最初は軽い、ついばむようなキスだったが、貪るような濃密な口づけへ変わるのに時間は要しなかった。
 いま目の前にいて唇を重ね合わせているお前が、生者であろうと死者であろうと構わない。生涯でただ一人愛していつまでも添い遂げてほしいと望むのは、妻よ、お前だけしかいない。死んだお前を再びこの手に抱けるなら、もしお前を生き返らせることができるなら、再び相見えて永劫の彼方まで一緒にいられるのなら、俺はどんな代償だって支払うよ。賭けたっていい、お前を生き返らせられるなら、どんな禁忌を犯したっていい。なにも知らない世人の非難を受けなくてはならないなら、甘んじて断頭台にだって立ってやる。唇の端にしょっぱい味を感じながら、作家は心のなかで叫んだ。
 すると、頭のなかに「本当?」という妻の声が響いた。ああ、本当だとも。彼は、そう答えて、薄目を開けた。妻は目蓋を閉じたまま夫の唇へ自分のを押しつけている。まるでこの世の名残のキスのようだった。
 湿気を孕んだ重い風に曝されて、唐突に妻が体を離し、身をよじらせてくしゃみした。作家は妻の肩を抱いて、もうなかへ入ろう、と促した。
 彼女は軽く抵抗した。なぜ、と問うと、妻は口を尖らせて、駄々をこねるような口調で、
 「お姫様抱っこじゃなきゃヤダ」
 そういうことか、と苦笑して、妻の背中と脚へ手を回して抱えあげる。こいつ、少し太ったんじゃないか、と顔をしかめたが、それは勘違いで自分の体力が落ちたんだよな、と作家は思い直し、そういうことにした。
 よいしょ、となんとか持ちあげると、全身を鈍い痛みが走った。苦痛に顔をしかめたそうになったが、にこにことこちらを見る妻にそれを知られたくはない。彼女の喜びに影を落としたくなかった。このまま寝室まで。おやすいご用だ。
 玄関のドア枠へぶつからないよう注意して、二人はなかへ入って扉を閉めた。誰にも見られなかった。よかった、よかった。以前、同じく外廊下でお姫様抱っこしてなかへ入ろうとしたとき、妻がドア枠に頭をぶつけて悲鳴をあげたことがある。それを聞きつけて顔を出したお隣さんが、お姫様抱っこしている作家と妻を見て、あらま、といって引っこんだことがあった。そのお隣さんも、妻が死んだことは当然知っている。なおさら、見られなくて、よかった、よかった。
 靴を脱いで廊下への第一歩を記す。と、お姫様抱っこはそこまでだった。夫の腰を心配した妻が、自分から降りるといい出したのである。決して自分が太ったことを認めたわけではない。

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