第2107日目 〈【小説】『それを望む者に』 11/20〉 [小説 それを望む者に]

 手を洗ってから妻に手を引かれ、ダイニングまで先導されるとテーブルの上には、夕食の支度がすっかりできあがっていた。並べられたメニューになんとなく見覚えがあった小首を傾げながらも、喜悦の色を湛えた顔で坐って、坐ってと急かす妻のいいなりになって、引かれたいつもの椅子に腰をおろす。フットボールを仲介としたルーシーとチャーリー・ブラウンの、永久に終わらないシークエンス・コメディみたくなりませんように。そう祈りながら。幸い、そんなことにはならなかった。浮き立つ妻が鼻歌を口ずさみながら(テレヴィで近頃よく耳にする、後ろ脚で立つ黒毛和牛が歌っているCMソングだった)、反対側の自分の椅子へいそいそと坐った。
 よく冷えているシャンパンで乾杯した。両頬を薄紅色に染めた妻が、温野菜のサラダへ手をつけた。それを見つつ、コンソメ・スープを口にしながら、思い出す。あ、そうか、と胸のうちで相槌を打った。いまテーブルに並ぶ料理の数々、シャンパン、これらはすべて、妻があのバス旅行へ行く前の晩に摂ったメニューではないか。最後の晩餐が用意されていた。
 俺は過去へ戻ったのか━━妻が生きていた日まで? 新しく生まれた疑問は、しかし一瞬で消えた。リビングの端の文机に乗る品々は、無言で、だが、これ以上にないほど雄弁に、妻が個人となったのを物語っている。葬儀社や区役所、保険会社の書類、加えて検死解剖された際の死体検案書が、箪笥のなかにある。なのに、いま妻は目の前にいて、自分と手をつないだり、話したり、唇を重ね、こうして食事までしている。死が現実であるならば、ほっぺをふくらませて楽しそうに食事をしている妻は、俺が生み出した幻の存在なのか。もしくは、長い眠りのなかで見ている夢。最前の自分がそうであったように、彼女も俺の想念が生み出した、イドの怪物みたいなものなのか?
 ━━幻でも夢でも、どちらでも知ったことではない。願いはただ一つ、いつまでも消えないでくれ。この子といつまでも一緒にいたい。望むのは、そんなにちっぽけなことだけなんだ……。
 ロースト・ビーフを咀嚼し終えて口許をナプキンで拭っているとき、二杯目のシャンパンを注いでくれた妻が、ものいいたげな眼差しでこちらを見ているのに作家は気がついた。あの晩にもこんな場面があったかもしれない。が、よくは覚えていなかった。十一日前の記憶は、もはや霧の向こう側にあって、実体を失いかけている。彼はうつむいて、時間の残酷さを呪った。
 「ねえ?」
 甘ったるくて艶めいた声だった。なにかを求める声色である。その主が死者であろうとも反応せずにはいられない。相手へ心から惚れこんだ伴侶の悲しい性だった。とはいえ、すぐに顔をあげることにはためらいがあった。心の片隅で、頭の片隅で、その死を現実の出来事と信じようと務めてきたのが、目を合わせた途端、木っ端微塵に砕け散ってしまいそうだったから。頭をちょっと動かして、視線をテーブルの反対側にいる妻へ投げるだけの作業なのに。
 夫の内心の葛藤を知ってか知らずか、妻が再び声をかけた。今度はためらうことも抗うこともしないまま、操り人形のように顔をあげた。別に生ける屍がいるわけでもない。拳にした両手を顎につけ、とろんとした目でこちらを見つめる妻がいるだけのこと。桜色の肌に鮮やかな朱がうっすらと差して、薄化粧(棺のなかの妻を見た者には、どうあっても死化粧を連想させた)を施された顔に、深みのある色気と情念が宿っている。生理の前後には頻繁に目にした表情だった。
 大粒の雨が音を立てて窓へぶつかっている。戦場で絶え間なく掃射される機関銃から吐き出された弾丸が、勢いもそのままに標的へ叩きつけられているみたいだ。
 作家はその音を聞きながら妻を見、微笑みかけようとする彼女から逃れるように顔を背け、伏せた。死を受け入れようとしているのに、生前と同じ姿をして同じ仕草をする妻がこうして目の前にいては、それを信じることはとても難しい。テーブルの反対側にいる妻は、どれだけ時間が経とうとも消える様子がなかった。
 だが……いや、もうそんなことはどうでもいい。なににもまして重要なのは、いま妻が目の前にいて、こうして生前と変わらない日常の一場面を演じていることだ。夢であろうと幻であろうと知ったことではない。歪んだ現実でも狂気の産物でも、作家にはもうどうでもよくなってきていた。それが、正直な気持ちだった。
 彼は諦めと充足が奇妙に調和して同居した溜め息をついた。顔を伏せたまま、ひょい、と上目遣いで妻を見、温野菜の皿の脇で遊んでいた彼女の手へ、自分の手を重ねた。妻がそれを優しく握り返してくる。その瞬間に、いわれようもないぐらいの幸福を感じた。
 そうして━━世界は暗闇に閉ざされた。黒に黒を塗り重ねた八重の闇。どこまで行っても薄まることもなさそうな暗闇が、周囲に垂れこめて作家を惑わせた。すべての色を失い、方向感覚も距離感も失われ、一人放り出された闇の王国の真ん中で、作家は右往左往し、叫び声をあげたい気分に襲われたとき━━
 ━━あたりは純白の世界に変化(へんげ)した。暗闇の遠いところからまっすぐに伸びてきた白い光の球(ホームラン・ボールを真正面から見ると、こんな風だろうか、と素朴な疑問を抱いた)が、輝きを放って作家の周囲に四散した。白い光の触手が四方八方へ伸びてゆき、一本の光の触手は並走する職種を合体してより太い触手となり、収束を続けて隙間のない白い光の幕になって暗闇の世界を覆い隠していった。暗闇はそれまで独占していた支配者の座を、なんの抗う様子もなく純白へ明け渡してゆく。まるで抵抗そのものが無意味だと知っているかのように。
 純白の光が暗闇を駆逐してゆくのを見て、汀へ押し寄せる波によって黒く濡れた砂浜が覆われてゆく光景が、脳裏に浮かんだ。埋もれた記憶の底から、子供の頃、朝な夕なに飽きることなく眺めていた伊豆の海が思い出された。彼にとって、妻と出逢うまでは唯一、幸せを伴って思い出せる記憶だった。
 気がつくと、妻がそばに立っている。彼女は夫の腕に両手を添えて、そのまま歩き出した。引きずられるようにして従(つ)いてゆく。目の前に緑深い森の光景が映った。きょろきょろ見まわしながら歩くうちに、二人はその森の中へ歩を進めていた。苔生した倒木が行く手を遮り、落ち葉が堆積してふかふかになった地面の感触を足の裏で確かめながら、森の奥へ二人は歩いていった。鳥のさえずりや木の葉がさざめく音、風が流れる音が聞こえる。目指す場所があってそこへの行き方がわかっているのか、妻は、倒木を迂回したり夫が休むのに足を停めたりもしたものの、迷う様子もなく、確信に満ちた足取りで森を進んでいった。途中、作家は後ろをなにげなく振り返った。自分たちの歩いてきたずぅっと後ろの方に、小さく一ヶ所だけ窓のように切り抜かれた場所があって、その向こうに純白の世界が覗いている。正体のわからない恐怖に身が震えた。もう二度と振り返らない、と固く心に誓って、妻に従って歩いた。
 いつしか森のなかは深閑となり、落ち葉を踏みしめる音だけが耳にできる。やがて森は開け、葎の茂る空き地に出た。そこに、さざ波一つ立っていない、四囲の光景を水面に映し出す池があった。一周しても五、六分というところか。傍らに立つ妻に顔を向けた。彼女の視線は池の向こうにまっすぐ向けられている。作家もそちらを見た。大きく枝を張って若葉を茂らせた桜の巨樹が、二人を出迎えるように植わっていた。この世のものならざる雰囲気を漂わせた巨樹であった。
 それを見つめたままで妻がいった。「あの桜を探して、私を連れてきて……“そのとき”が来たら……」懇願するような口調だった。「例え結果がどうなろうとも、そこにわずかでも希望があるのならチャンスをちょうだい」
 妻の名を呼び、作家は訊ねた。からからに渇いた口からどうにか絞り出した声は、やたらと大時代的で平板に聞こえた。
 夫の質問に答えるより早く、森のなかに男声が響いて森を揺るがした。深くて重々しい、全能神を想起させるバスの声(作家はハンス・ホッター歌うヴォータンを連想した)。その、目に見えぬ者の声が、作家の耳を聾した。「それを望む者のみがそこへ辿り着く」と。
 作家があらん限りの声量でその声に訊ねようと口を開いたとき、背後から迫ってきた純白の光が彼と妻を包みこんだ。森は光に呑みこまれた。池も、桜の木も、すべてが純白の光のなかへ溶けこんで、塗りこめられて見えなくなった。周囲の光景がそうやって消えてゆくにつれて、作家の体も輪郭が光のなかへ消えてゆき、目が開けていられないほど眩くなって、気がつけばダイニングにいて夕食を摂っていた。テーブルの反対側に、妻が坐って、にこやかな顔で何事か話しかけている。
 テーブルに手をついて、椅子から腰を浮かす。手から力が抜けた。そのまま床へ倒れこんで側頭部をしたたかにぶつけ、顔をしかめても、作家にはいまの森の光景が夢や幻とは信じられずにいた。
 妻があわててやってきて、しゃがみこんで夫の肩に手を置いた。
 「どうしたの? だいじょうぶ?」
 朦朧とした頭でぼんやり妻の顔を見あげて、「いや、なんでもない。どうということでもない」と、抑揚を欠いた声で答えた。
 妻の助けを借りて、体を起こす。
 膝で立って、彼女の額にかかった前髪を、指先でそっ、と触れた。刹那の間見つめ合った後、作家は荒々しく妻を抱き寄せた。そして、唇や頬といわず、剥き出しになった桜色の肌へ跡がはっきり残るぐらい強く口づけて、妻の名前を呼び続けた。いつしか涙が滂沱とあふれ、彼女の肌を濡らしていた。
 夫の頭を撫で、背中をさすって、宥めるような声で妻は夫を慰め続けた。ごめんね、という彼女の声が作家に聞こえていたかどうかはわからない。夫を抱きしめる彼女の視界に、リビングの片隅に置かれた文机が映った。妻自身の遺影や骨壺が載っている。彼女は小さく頭を振ってそれを視界から追い出し、夫の首筋へ顔を押しつけた。

 雀のさえずりで目が覚めた。まどろみのなかでそれを聞きながら、軽く息を吐いた。どうやら昨夜は食事とシャワーのあと、和室でねっとりした愛の交換に励んでから、寝室へ移動する気力もなくして、この場で眠りこけてしまったようだった。和室の障子を細く開けると、刷毛で一塗りしたみたいな雲の浮かぶ青空が広がっていた。
 このマンションへ移ってきた当初、妻がおもしろ半分にご飯の残りをベランダの手摺りへ置いてからというもの、ほぼ毎日雀の集団が入れ替わり立ち替わり訪れるようになった。二人はそれを観察しては囁き声で会話をし、ほっこりとした気分にさせられたものである。妻が死んでからは訪れる回数も減ったような気がしていたけれど、昨日スターバックスへ出掛ける前に撒いた冷飯がないところから、雀たちはこのエサ場を見捨てていなかったようだ(昨夜の風で飛ばされたのかもしれないが、希望も夢もない貧しい発想だ)。
 いったい雀たちは、自分たちの餌付けを思い立って実行し、成功させた、この部屋にいた女性が死んでしまったことを知っているのだろうか。まだ目蓋が半分落ちた状態で、つらつらそんな風に考えた。彼らにしてみればちっぽけなことなのかもしれない。そこにエサがあるかどうか。なければ他へ行く。それだけのこと。そう、簡単なことだ。
 起きあがって和室のなかを見まわす。妻の姿はなかった。真夜中に目を覚ましたとき、彼女は隣で寝息を立てて眠っていた。いまは、どこにもいない。着替えて家のなかを探してみても、どこにもいなかった。
 リビングの片隅には、ちゃんと妻の遺影や骨壺がある。離れたところから手を合わせて、顔洗ってきたら線香あげるからな、と話しかけて、背を向けた。ダイニングにもキッチンにも、昨夜の食事の痕跡は見出せない。片付けていったのかな、それとも、そんなものは最初からなかったか、だ。洗面所へ行って顔を洗う。鏡に顔を映して、しばらくしげしげと見つめてみる。頬がこけた様子はない。昨日のタクシーの窓に映ったあの顔は、やっぱり俺の見間違いだったんだ。妻恋しやの気持ちが見させた、束の間の幻影に過ぎない。
 口許が自然とほころび、納得した溜息がもれた。うれしかった。妻の死を現実として受け入れられたような気分だ。もう幻影に惑わされはしない。俺は、この世にたった一人の存在。
 洗面所から出ようとして、ん、と立ち停まった。頭の片隅に、小さな「?」が灯った。現実ならざるものがこの場所に忍びこんでいる。踵を返して、ゆっくり頭をめぐらせた。広くもない洗面所が、やたらと大きく思える。次第に募ってくる怯えをどうにか押さえ、洗面所の端々へ目をやりながら、すり足で進んだ。
 と、視線が吸い寄せられるように動いた。洗面所の一角、洗濯機の方へ。蓋は開けられ、ドラム缶の上部が見えている。覗くのが怖かった、そこにヨカナーンならぬ妻の生首を見つける気がして。だが、そんなものはない。放りこまれた洗濯物があるだけだ。安堵して洗濯機から離れかけたとき、作家はそれを見つけた。小さな悲鳴が唇の間からもれて、いつしか歓喜に彩られていった。
 投げこまれた洗濯物のいちばん上にあったのは、なに、大したものではない、昨夜妻が身につけていて作家も脱がせた記憶のある、山吹色のショーツだった。無造作に投げこんだ様子が、ありありと思い浮かべられた。手を伸ばしてそれを拾いあげる。触ってみてようやく、それが実在するものだと納得できた。
 しげしげと眺めるなぁ! もお、バカ、なに触ってんだよぉ!?
 ムキになって奪い返そうとする妻の声が、耳のなかに響いた。こんな会話が実際にあったような気がするが、思い出せない。
 手にしたそれは、わずかな湿り気を帯びていた。やっぱり昨夜の君は現実だったのか。泣き笑いしながらその場へしゃがみこんだ。妻の名を何度も口にしつつ、手にしていたものを胸に押しつけた。
 ━━しばらくの間、そこに坐りこんでいた。電話が鳴っている。無視したかったが鳴りやみそうにない。手にしていたものを洗濯機のなかへ戻して、リビングへ戻った。しつこく鳴り続ける電話を壊したい衝動を覚えた。が、それはすぐに封じこめて、意を決したように受話器を取った。
 もしもし、というのを、相手が遮った。妻の声が受話器の向こうから、はっきり聞こえてきた。ひゅっ、と喉を鳴らして、呆然とそれを聞いた。
 「私の下着、触ってたでしょ? やめてよね、恥ずかしいんだから」
 呆れたような口調に、腹の底から笑い出したくなった。恐怖は突き詰めると笑いに転化するという。まさしくこれは、その実証ではないか。それに、妻よ、まさかそんなことをいうために、あの世から電話してきたわけじゃあるまい。
 「なに笑ってんのよ。もう……」
 彼は妻の名を呼んで、「ねえ━━」
 「私を連れていって」
 そういって、電話は切れた。というよりも、電話線が切られたような唐突な終わり方だった。
 その場に立ち尽くして、窓の外を見つめた。その様は、糸を切られた人形のようだ。彼女の名前を二度、三度と呼ばわったが、返ってきたのは、怪訝な調子を隠さない女性の声だった。むろん、妻ではない。
 「あの、昨日病院でお会いした━━」
 深い失望感を巧みに隠して、その場を取り繕った。
 焼香に来るといっていたが、そういえば時間までは決めていなかった。聞くと、もう最寄りの駅にいるという。
 「これからお伺いしてもよろしいでしょうか?」
 「ええ。もちろん。道はわかりますか?」
 「年賀状に地図がありましたから、平気です。駅徒歩約二〇分とありますが?」
 「だいたいそんなもんです。じゃあ、時間を見計らって外へ出ていますから」
 では後ほど、と約束して電話は切れた。
 二方向へ開けたリビングの窓を両方開け放して、風を取りこんだ。手早く片付けと掃除を済ませると、妻の遺影の前に胡座をかいて坐った。遺影の表面のガラスを撫でながら、写真の妻に訊ねた。
 連れていって、とはどういうこと? あの桜の木のことか? あれがどこにあるのかも知らないっていうのに、そんな無茶いわないでくれよ、……。
 妻はなにもいわず、ただそこで微笑んでいた。
 手摺りに留まった雀の集団がさえずって、エサをねだっている。

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。