第2108日目 〈【小説】『それを望む者に』 12/20〉 [小説 それを望む者に]

 妻の同僚の女性が、オリーブの木が両側に植わる石畳の遊歩道をやってくる。作家はマンションの外、エントランスを出たところで立ち呆けて眺めている。黒のジャケットにタイト・スカート、黒のストッキングにパンプス、駄目押しのように左手から提げられたハンド・バッグ。非の打ち所のない喪服姿だ。陽射しがそれほど強くないにもかかわらず、その姿を見ているだけで汗が噴き出してくる。意識しないまま手の甲で額を撫でた。べっとりとした感触に顔をしかめ、ズボンのポケットから出したハンカチで額と手の甲を一拭きした。
 近づいてきた女性を笑顔で出迎え、マンションのなかに入る。今日は暑いですね、と交わした直後に、エントランスへ足を踏み入れれ、同時に女性が思わず、「涼しい」と洩らした。割に大仰な様子だったこともあって、作家はなにはなし、この女性に好感を持った。
 部屋へ招き入れると、女性をリビングの文机に案内した。焼香と合掌の間にお茶の支度を済ませる。彼女は合掌を終えると立ちあがり、やもめになった作家へ深々とお辞儀した。彼も機械的に返礼した。坐るよう促して(普段は彼が坐る椅子だった)お茶を煎れて進めた。静岡は久能山のそばで摘まれた粉茶で、小堀製茶というところが出している。
 作家は妻が坐っていた椅子に腰をおろし、女性の視線の行方を観察した。お茶を飲んでは折々に違う表情を浮かべて、妻の(かつての同僚の)遺影に投げられるその眼差しは、まるで今し方目の前で奪われた命が形を持って宙に漂うのを見つけて、周囲の見えていない人へ教えようか教えまいか、悩んでいる人のそれのようだ。ふらふら行方定まらずさまよう視線は、そんな風に見える。
 あながち間違っちゃいないさ。口のなかでそう呟き、内心にっこりと微笑んだ。この人が選ばれた人なら、やがてその眼差しには真実が宿ることになるだろうよ。
 そのうち、彼女は放心したように細長い溜め息を吐いて、口を開いた。
 「昨日聞いたときは信じられなかったんです。あの子が死んだ、っていうのが」その目に涙がじわっ、とあふれ、濡れた跡を残して流れ落ちていった。「嗚呼。……でも、ようやく納得できました。もう生きては会えないんですね」
 彼女は顔を背けて、ハンド・バッグから出したハンカチで涙を拭いた。
 故人となった我が妻のために、自分の知らない人が紅涙をしぼり慟哭している。私的な空間で目の当たりにすると、感情が感染して、こちらも涙腺がゆるんできて、どうにも困った。仕方なく作家は、妻の遺影と女性をひとまず視線から追い出し、ぼんやりとリビングの折上げ天井を見つめた。葬儀のときは泣く暇も余裕もなかったから、誰かが涙をこぼすのを目にしても、なんとも思わなかった。なのに、いまは……。
 そこまで考えて、彼は大きく頷いて息をついた。一緒に全身の力が抜けてゆきそうで、テーブルへそのまま突っ伏してしまいたい気分になる━━実際やりそうになったが、女性がいては思い留まるより他はない。
 くすん、くすん、と鼻を啜りながらハンカチで目頭を押さえていた彼女が、失礼しました、と小さな声でいって、作家の方を見た。
 「今日はあの子の昔の同僚では私だけが非番で。まだ在職している人たちの代表を兼ねて私が来ました。もう辞めたり、違う病院で働いている人もいますから、もしかすると焼香に来たい、という人もいるかもしれません。そのときは、お忙しいでしょうけれどご対応お願いします」ゆっくりとした口調で喋ると、テーブルの上に両掌を置いて、ぺこり、と頭をさげた。つられて作家は頭をさげて、了解した。
 それから会話の接ぎ穂も見つからぬまま時間が過ぎ、気まずい沈黙が訪れた。女性はあまり意に介していないようだった。相変わらず妻の遺影を眺め、ほんのときどき、窓の外へ目を移した。一緒に働いていたときのことを思い出しているのか、表情が実によく変化した。内容まではわからないが、どんなことを思い出しているのかはだいたい想像がつく。しかしながら、作家は手持ち無沙汰だった。関節を曲げたときの骨の鳴る音までがはっきりと聞こえてきそうで、身動きも呼吸も慎重にしなくてはならない状況に放りこまれた気分だ。針のムシロ、っていう言葉がぴったりだな、この状況。湯呑みのなかのお茶の色を溜息混じりで見おろしながら、そう思った。━━が、黙ったままでいるのも限界がある。
 がばっ、と顔をあげて、口を開いた━━
 「ご実家はどちらなんですか?」
 どんぐり眼で女性が振り向いた。その表情に、困惑と警戒の色が一瞬浮かんで巧妙に隠されてゆくのを、彼は見逃さなかった。
 作家は両腕を前へ差し出し広げた両の掌を左右に振り振り、あわてて弁解した。
 「い、いや、変な意味で訊いたんじゃありませんよ。専業作家になるまで不動産営業の仕事をやっていたもので。だから、染みついた職業病みたいなもので、習性っていうか、単なる興味? で訊いているんじゃありませんから。気に障ったなら、あの、本当にごめんなさい」
 そういって、頭をさげた途端、テーブルの端に額をぶつけた。呻き声がもれるのを禁じ得なかった。おまけに、結構いい音がした。そのとき、開いた掌へ目を落とした。汗でびっしょり濡れている。なに焦っているんだ、俺?
 気まずい思いで面を上げた。女性と目が合った。女性のどんぐり眼が見開かれ、すうっ、と細くなり、引き結ばれていた唇が歪んでゆるんだ。顔色は健康的な薔薇色に染まってゆく。そして、背をのけぞらせて呵々大笑した。
 さっきまでの真面目な印象を吹き飛ばすような、豪放磊落な笑い方だった。それが却って作家を落ち着かせた。妻が生きてこの場にいたら、午前中からずいぶんと賑やかなことになっていただろうな、と思うと、ちょっと心が痛んだ。
 少しして笑いやむと、女性は息も絶え絶えにお茶を飲んだ。指で涙を拭って、思い出し笑いをこらえて、「気に障っただなんて、そんなことちっとも思っていません。ただ、あの子のいっていたとおり、誠実な方なんだな、って思っていたんです。━━あの子が惚れたわけですね。ずっと年上の男性だって教えられたときは、さすがにびっくりしましたけれど」といった。
 「はあ……」
 「いつも、とっても楽しそうに話していたのを、みんなが覚えているんです。伊勢佐木モールのスターバックスでしたよね。初めて逢ったのは?(はい、と作家は頷いた)あの日、病院へ戻ってきたら、いきなり貴方のことを喋りだしたんです。それまで男性の話もしたことがなかったし、浮いた噂の一つもない子でしたから、なおさらみんな、覚えているんです。……そう、ずっと、いつも貴方のことでしたねぇ……」
 「そうだったんですか」と彼はいった。赤面していいのか、恐縮してよいのか、よくわからない。「そんなこと、話してくれませんでした」
 「照れ臭かったんですよ、きっと」そういって、女性はお茶を飲んだ。「あの子は最初から貴方にどっぷりと惚れこんでいましたよ」
 ふうん、と作家は相槌を打った。とても満足げなそれと、女性には聞こえた。
 女性が続けていった。「あの子が辞めて、もう三年ぐらいになるのかしら。いなくなってからしばらくは火が消えたような淋しさで。少し暇になったり仕事が終わったあとなんて、集まると誰彼なくあの子のことを話し始めて。みんな、好きだったんですね。みんな、あの子と話したり、顔を見ているだけで元気をもらえましたから。退職してから私もいろいろありました。つらいことや苦しいことがたくさん。でも、そのたびにあの子と過ごした時間を思い出して……そのたびにあの子のことを思い出して、無理矢理笑顔を作ってがんばったんですよね」そこで一端言葉を切り、こぼれ落ちかけた涙を拭って、遺影へ目を向けた。「ほんと、なんで死んじゃったのよ……?」
 「ありがとうございます」と作家はいった。女性がこちらへ振り向いた。「妻をそんなに好いてくださって。彼女、家にいてもほとんど同僚や仕事の思い出話はしなかったし(付き合っているときもそうでしたが)、貴女たちを家に招くこともなかった。だから、あまり友達がいなかったのかな、なんて、ずっと思っていたんです。でも、そうじゃなかった。今日貴女の話を聞いて疑問が解決しました。お話を聞けてよかったです」
 女性が頭を振った。そして、一緒の時間を大切にしたかったんですよ、二人の時間や場所を守りたかったんでしょうね、と呟いた。
 「あの子、あんな風に背が小さくて明るくて元気で前向きで、一緒にいてとても楽しい気持ちにさせてくれる子だったじゃないですか。(作家はここで首肯した)いい寄ってモノにしようとした人は多かったんですよ━━そうね、五〇人ぐらいはいたのかな」
 むせた。お茶が気管支に入りこみ、ずっとむせた。女性がテーブルを回って、背中をさすってくれる。そうこうしてようやく呼吸が落ち着いた。テーブルへこぼれたお茶を拭き取って、急にそんなヘヴィーなこといわないでくださいよ、と請うた。
 でも、それって本当ですか、と作家は訊いた。女性が頷いたのを見て、さもありなん、と納得した。
 女性が続けた。「医師や患者さん━━外来や入院の別なしに━━はもちろん、えーと、調剤局の人とかレントゲン技師や救急隊員、メーカーの営業さんとか、まあ、病院に関わる人の大半は網羅していましたね。そういえば、俳優とか気象予報士とか、代議士なんていうのもいたな。代議士さんはその後、汚職事件の主役として起訴されて有罪判決受けましたけれどね」
 「ず、ずいぶんとモテたんですね」顔を引きつらせながら作家はいった。
 「ええ、モテました。あの病院じゃいちばんでしたよ。でも、撃墜率は一〇〇パーセント。あれでよくいじめに遭わなかったな。人徳かなぁ、やっぱり」と、頬杖をつきながら女性が、ひょっ、と思いだし笑いをした。「あの子が結婚した、って知って、みんなショック受けてましたねぇ」
 「返答に窮す事実です」
 「それでも、あの子は自分がいちばん愛して信じた男性のところへ嫁いでいったんですから」
 その台詞には、喜び以上に空しさを感じた。それほどに想いを寄せてくれていた妻のいないことが、途方もなく応えたからである。
 作家の顔とかつての同僚の遺影を交互に眺めながら、女性がぽつり、といった。
 「お似合いの夫婦でしたね」
 「いつまでも一緒にいられる。そう思っていたんですけれどね」
 そういいながら、作家はこの数日、自分の前に現れては消える妻の幻影に思いを馳せていた。死んだのに彼女は俺の前に現れては生前と同じように過ごしている。これはすべて自分の幻覚なのだろうか。それとも俺は正気を保ったまま、肉体を持ってこの世をさすらう妻の亡霊と交わっているのだろうか。
 「でも、正直なところ、十六も年齢(とし)が下の子に心を奪われるなんて、思いもしなかったですけれどね」
 幻影がゆらめいて立ち現れ、ふっ、と消えた。そしてまた現れた。妻の姿が、昨日ほどの存在感はないものの、テーブルの向こうにいる女性の背後を行ったり来たりしている。洗濯カゴを持って、ベランダへ歩いてゆく。彼女の目にかつての同僚の姿は映っていないようだった。喋りながら作家は、そんな光景を内心面白そうに眺めた。
 リビングの腰高窓から駒丘や東寺尾の丘陵が望めた。壁の近くに立って北西へ目を転じれば、新横浜の街並みを視野に収めることもできる。が、急速な再開発が進んだせいで、子供の頃に親しんだ景観はなくなってしまった。いま彼が住んでいるこの地域にしたって同じだ。このマンションが建つまで、作家の生まれ育った家(高校卒業と同時に出奔した実家)はこの地にあった。舞い戻ってくる気はなかったが、磁場に引き寄せられるようにここへ戻ってきてしまった。幸い母も兄も、もうこの界隈にはいない。ハレルヤ。この街は腐りきっている。横浜は魂を捨ててよそ者をたらふく抱えこんで名にし負う借金街になってしまった。腐っている。
 唇を噛んで窓外へ目をやっていたら、女性のいることをすっかり忘れてしまった。視界の端で相手がなにかいっている。それに気附いて作家は謝り、話を促した。女性は嫌な顔一つせずに、もう一度訊ねた。
 「あの子からリンゴ箱の話って聞いたこと、ありますか?」
 小首を傾げて作家はしばし記憶の掘り起こしを試みた。でも、どれだけそのキー・ワードで記憶を検索してみても、該当するものは思い当たらない。
 彼は首を左右に振って否定した。「いや、たぶん聞いたことないですね」
 そうはいっても、なぜか明瞭にリンゴ箱の映像は脳裏へ描ける。どこかで見たことがあるのだろうか、それとも、子供の時分に見たそれが思い出されているだけなのだろうか……。
 「あの子のことを思い出すたびに、リンゴ箱のことも思い出すんです。対になって記憶されている事柄、とでもいえばいいのかしら」
 「そういうことってよくありますよね。良い思い出であれ、悪い思い出であれ」
 「ええ、そんなところですわ。病院の外来受付の後ろに、カルテが保管されている部屋があるんですけれど、昨日ご覧になりました?」作家が頷いたのを見て、女性が続けた。「過去に来院したことが一度でもあれば、カルテがそこにあるわけですよね。それを探してそれぞれの科の窓口へ持ってゆくのが私たちの仕事の一つだったんですけれど」
 そこまで喋って一端切ると、女性はお茶で口を湿らせた。
 ちょっとの間があった。無言の時間が訪れるのを嫌うように作家は、「ああ、廊下で順番を待っていると、よく受付の人がカルテを窓口へ置いてゆくのを見ますよね」といった。
 頷いて、女性は口を開いた。
 「カルテが棚の上の方にあるとあの子、手が届かないんですよ。だから普段は踏み台を使って取っていたんですが、ある日、それが壊れてしまったんです。私たちは別にいいんですよ。なくても届きますから。でも、あの子はねぇ、なんて話をしていたら、彼女、どこで見つけてきたのか、リンゴ箱を拾ってきたんですよ。昭和四十年代までよく見かけられた、あの木製のリンゴ箱ですよ。私たちが唖然としているのを尻目にあの子ったら、それに乗って棚の上の方のカルテを取り出したりして。そりゃあもう、可笑しかったのなんのって。しばらくみんな、カルテ室で大笑いしていましたわ。そのうち、新しい踏み台が届いたら、そのリンゴ箱はあの子専用になりました。いつの間にか、〈私専用〉なんて貼り紙がしてあったっけ。そんな風に、いるだけでその場の雰囲気を和ませてくれましたね、あの子は」
 作家はくすくす笑いながら返事した。「光景が目に浮かびますね」
 そういえば、あの子が辞めてからあのリンゴ箱も見なくなったんですが、捨てていったんでしょうか」と、まるで独り言のように女性は呟いた。
 それを聞いて、作家は黙考した。やがて、「あっ」と短く声をあげた。自分でも知らずにテーブルの端を叩いて、湯呑みのなかのお茶をさざ波立たせた。━━リンゴ箱。ああ!
 「思い出しました、そのリンゴ箱、まだありますよ。納戸の奥に閉まってあります。見ますか?」
 「あ、い、いえ。お構いなく。そうですか、やっぱり持っていったんですね。あの子が辞めてしばらく淋しい気持ちになっていたのは、あのリンゴ箱がなくなっていたからなんです。あの子のいた痕跡っていえばいいのかな、それが跡形もなく消え失せてしまったような気がして……。そうでしたか、ちゃんと私物として持って行っていたんですね。よかった」
 女性が心底から安堵した表情になった。それを見て作家も、自分の心が充足感で満ちてゆくのがわかった。
 「私、彼女と病院で会えたことに、ちょっとした運命を感じたんです。あ、別に変な意味じゃなくて。━━あの、もう一杯いただけます? 喋り続けたせいか、喉が渇いて……」
 「どうぞ、いくらでも。いま新しいのに替えてきます。━━いえ、もう出涸らしですから」そういって台所の生ゴミ捨てにお茶の葉を捨ててリビングへ戻り、また新しいのを煎れた。どうぞ、と新しいお茶の入った湯呑みを、女性へ差し出す。「運命、ですか?」
 ええ、といって、女性は湯呑みへ口をつけた。「あの子と私、同郷だったんです」
 「あ、そうなんですか。出身地のことを訊ねても、教えてくれなかったんですよね。どこなんですか?」
 「小さな街ですよ。奥多摩の方で、北白川市、ってご存知ですか?」
 「名前だけは」
 「私たち、あすこで生まれ育ったんです。もっとも、彼女は義務教育が終わる前に街を出たそうですけれど」
 ふーん、と作家は相槌を打った。「二人で訪ねてみたかったな。でも、なんで妻は街の話を一度もしてくれなかったんだろう」
 女性が頭を振って、いった。「そこにいるときにご両親を亡くされた、っていうのは聞いたことがありますけれど、うん、確かにあまり話そうとはしなかったですね」
 「僕はあまり信用されていなかったのかな」自嘲気味に彼はいった。
 「そんなことありません!」怒髪天を貫く勢いで女性がいった。が、すぐに冷静を取り戻し、恥じるように小声で、「すみませんでした」と呟いた。
 「誰にだって話したくないこと、黙っていたいことはありますよ。貴方だってそうではありませんか?」
 「そりゃあ、まあ……。そうですね。こちらこそ、軽くいってしまってすみませんでした」
 「いいんです、忘れましょう。あの子が貴方に寄せていた想いは本物だったのですから」
 うん、と頷いて、お茶を一口飲んだ。甘みと渋みが程よく調和した味が、口のなかいっぱいに広がった。
 「小説家なんて仕事をしていると、その街の伝承とか興味がありますね」と、作家は唐突にいった。
 それを聞いて女性はしばし考えこむように俯いて、そうして口を開いた。
 「北白川市にはいろいろと民間伝承や伝説がありましてね。歴史や民俗学の研究者たちには、昔からよく知られた街だったようです。柳田國男や折口信夫も訪れたとかで、民俗資料館に記録がありますよ。この近くに聖テンプル大学ってありますよね。そこと、北白川市にある北白川大学は姉妹校だそうです」
 そうして幾つかの話を披露してくれた。作家は耳を傾けているうちに、それらが小説の題材として使えそうだ、と判断した。だが、それ以上に話そのものに引きこまれていた。彼は女性に許可を得て、仕事部屋から持ってきたノートへそれらを書き留めた。
 リビングへ西日が射しこんできた。近くの国道を走る車の音は聞こえない。黄昏時の静寂の時間が訪れた。
 話が一段落して、また妻の思い出話をぽつり、ぽつり、と続けていたら、ふと、女性が「そういえば、よみがえりの樹、っていうのもあったな」と呟いた。
 思わず顔をあげた。なにかが琴線へ引っかかった。彼の関心を誘うのに、これ以上はない話題だった。
 どうやら自分でも気がつかないうちに、貪欲な表情を眼へ浮かべていたらしい。女性がちょっと怖じ気づいて身を引くのがわかった。わかりやすいぐらいにかぶりついてしまった。作家は、もっと自然に見える関心の寄せ方はできなかったのか、と悔いた。女性が思わず引いてしまったのも道理だ。しかし、もう遅い。
 まだ妻が死んで日が経っていないせいか、そんな話題にはどうしても過敏に反応してしまう。どうか許してほしい。よかったらその話を聞かせてもらえないだろうか。
 作家はそういって、女性に話を促した。ちょっとの間を置いて、女性が口を開いた。
 「私も━━いえ、誰もちゃんとしたことはなにも知らないんです。ごめんなさい。なんていうのかしら━━みんな、とても断片的な噂は子供の頃から聞いて育っているんです。でも成長するにつれてそれを忘れていってしまう。本当のところを知る人なんて、殆どいないんですよ。真実はいつも、薄いヴェールが何重にもかかっているずっと奥にあって、真実に行き着いたと思うとまだその先がある━━そんな感じです。
 その“よみがえりの樹”、それがどんな種類の樹なのかも誰一人として知りません。ただ子供の頃に聞かされていまでも覚えているのは、童謡みたいな節で唄われる一節だけ。『泉の裏の、深山の奥つ方、朽ちた社のなかの池、ほとり植ゑばら樹の下の……』なんていう一節だけです。なんでもその樹の下に死体や灰を埋めると……死者が黄泉の国から帰ってくる……そうです。そんな風に聞きました」
 話し終わっても女性は顔をあげようとしなかった。ただじっと、テーブルの表面の木目模様に目を落としていた。作家はなにもいわず、黙りこくっていた。
 「きっと」と、ようやく作家は口を開いた。電気を点けていないリビングに射しこんでいる西日は、徐々に弱まってきている。「大切な人を失った人が、それを望んだのでしょうね」
 我ながら陳腐極まりない台詞だと思ったが、女性が「ええ、そうなんでしょう」と同意してくれたことで、少しく気が晴れた。
 作家の脳裏で、昨夜妻が見せた桜の木の映像がちらついている。光と闇の境界線にある桜の木。それこそよみがえりの樹に違いない。彼はそう考えて、心のなかで頷いた。
 しばらく経って、妻の同僚だったその女性はお暇を告げて帰って行った。別れ際になにかいおうと口を開きかけたが、すぐに閉じて、背中を向けて歩き出した。廊下を曲がって見えなくなるまで、作家は無言でその後ろ姿を見送った。
 藍色をした宵闇の空に黒ずんだ雲が薄く棚引き、乳白色をした半月が虚空に浮かび、静かに下界を見おろしている。飛行機の翼端灯が二つ、北へ向かっていた。作家はそれらを、呆けたような表情でしばらくの間、じっと見あげていた。淡い期待を抱いたが、妻は姿を現さなかった。

 作家はシャワーを浴びて、冷蔵庫から缶ビールを出してリビングへ戻った。妻が自分の遺影の前に坐って、額のなかの自分を見つめている。椅子を引いて腰をおろし、ぷしゅっ、と音をたててプルトップを開け、一口呑んだ。その間中、ずっと妻の背中から目を離せなかった。
 やがて妻が振り向いた。泣いていた。作家はそれを、美しい、と思った。
 「お前の見せてくれた樹が、お前の故郷のどこにあるのか、わからないよ……」
 缶をテーブルの上に置き、妻の隣へしゃがみこんで、彼はいった。彼女はなにも答えない。
 二人揃って遺影の前に坐っているのは落ち着かない気分だった。この異様な光景のなかに身を置いていたら、自分の目にも涙がじわり、と溜まってゆくのがわかる。
 妻がこちらを見て、声を震わせながら、いった。「神社まで来てくれたら、私が道案内をするから」と。
 作家は唇を引き結んで、目尻から涙がこぼれそうになるのをこらえた。彼女を抱き寄せようと両腕を伸ばした。
 が、肩へ手を触れた途端、妻の体は黒い煙となって消えた。その煙もすぐに見えなくなった。
 妻のいた空間に目をさまよわせていても、彼女が現れるわけでもない。わずかとはいえ、その場にぬくもりが漂って残っているばかりだ。視線を動かしていたら、遺影の妻と目が合った。最前までの遺影とは、表情が異なるように思われた。相変わらず彼女は微笑して、夫を見ているのだが。
 作家は姿勢を崩して額を床へ押し当て、ごろり、と横ざまに転がった。フローリングの冷たい感触をシャツの生地越しに感じながら、妻の名を何度もうわごとのように呟いて、さめざめと泣いて過ごした。

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