第2116日目 〈【小説】『それを望む者に』 20/20〉 [小説 それを望む者に]

 夜になった。作家は一人で食事を作って、テーブルに運んだ。テレヴィで野球中継を観ながら食べた。そのあとで一人でシャワーを浴びて、風呂あがりのビールを一人っきりで飲んだ(冷蔵庫にあったギネスを買った覚えが、彼にはとんとなかった)。延長戦に入って放送時間内に終わらなかった試合の結果をスポーツ・ニュースで確かめると、そのままCS放送に切り替えて、一九三〇年代のイギリス映画を観た。エンド・ロールが流れるまでにビールの空き缶は、彼自身も気付かぬうちに五本に増えていた。
 寝室でベッドに寝転がってみても、眠気はまったく訪れる様子がなかった。こうした場合は経験上、羊の数を数えるのも逆効果である。どうせまた正装した雌雄の羊たちが優雅なステップを踏むのが関の山だ。ワルツを踊るならまだいい、でも今度はオペラでも歌いかねないな、と作家は吹き出すのをこらえながら、そんな夢想を弄んだ。
 御澤山から帰ったこの三日間、なるたけ妻のことは考えないようにしてきた(せいぜいが線香をあげるときだけだった)。そうした方が、早く望みは叶えられるような気がしたからだ。でも、こんな夜はふと考えてしまう。疑念混じりに、彼女のことを。希望は捨てちゃダメ、といった妻の声が心の片隅で聞こえた。十六歳も年下の女の子とこれから一緒に歩いてゆけるのか、と将来に不安を感じていた自分に妻がいい、新婚旅行のときにも作家へ諫めるようにいったあの言葉。
 いかなるときであろうとも、希望は捨てちゃダメだよ。
ああ、そうだと思う。しかし、ひとたび生まれた疑念は希望を微妙に歪めて、信じる心を蝕んでゆく。逃れる術は、たった一つ。たった一つの冴えたやり方を実行する。
 作家はむくり、と起きあがり、仕事部屋へ向かって机の前に腰をおろした。机の上に両肘をつき、重ねた両手の親指を額にあて、なぜかそれだけが明瞭に記憶に残っている詩編の一節を、そっと口ずさんだ。「命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこへとどまるだろう」と。
 そうしてから彼は、ノート・パソコンの電源を入れた。BOSEのCDラジオにライチャス・ブラザースのCDをセットして、再生した。次いで猛然たる勢いで、作家没して後も長く読み継がれることになる唯一の長編小説のプロットと第一章を書きあげた。数時間経ってから、印刷したプロットをじっくり読み返してみた。結末の手前でより効果のある展開を思いつき、内心で「よっしゃ!」と叫びつつ、赤ペンで細々と書き付けて、満足の溜め息をついた。
 リビングの時計の鐘が四時を知らせている。外は白み始め、雀のさえずりが聞こえてきた。
 ノート・パソコンの脇に置いた携帯電話が鳴った。エーデルワイスの着信音を設定しているたった一人からの電話である。最小のボリュームにしてあったから、机の前にいなければ気附かなかったかもしれない。彼は原稿を上書き保存するとパソコンの電源を落として、充電器に繋いだままの携帯電話を取りあげた。背面のサブ・ディスプレイに蛍光グリーンで“CALL”の文字が浮かびあがっている。携帯電話のフリップボディを開いて通話ボタンを押すまでの間、彼は迷った。が、それもほんのわずかな時間だった。彼は深く息を吸いこんだ。やがて小さく頷くと、通話ボタンを押して受話口を耳に当てた。その瞬間、彼の周囲から生きとし生けるものの気配がみな消え失せた。雀のさえずりも、この時間帯にいつも聞こえてくる新聞配達のバイクの音すらもこの世界から退場したような静けさが、作家の周囲に訪れた。携帯電話の向こうで彼と同じように言い躊躇っている相手の呼吸だけが彼の耳に届いた。
 悠久の希望を与えてくれる君を想えば、夜も短い。嗚呼、わたしのラキシス、君を想えば夜も短い。
 「もしもし?」と作家はいった。


 四十九日を済ませる前に作家は伊豆へ転居した。毎晩電話で協議を重ねた末の決断だった。思いの外、引越作業は早く進み、前日の午前中にはすべての荷造りが終わった。それまで仕事部屋に使っていた部屋(いまは梱包された段ボール箱が積みあげられて幾つもの塔を築いている)で、そこでは最後の執筆を終えると、一時的に役目を放棄して単なる箱と化した家具が影法師となって壁を背にたたずむなかを行き、敷かれた布団へ倒れこみ、最後の夜を過ごした。
 かつての同僚から安く譲ってもらったデミオ(これの代金と中伊豆に購入した別荘の支払いで、貯金の三分の二が吹っ飛んだ)に乗って、運送会社の六トン・トラックを追うようにして住み慣れた横浜を離れ、途中、ちょっとした渋滞に巻きこまれながらも東名高速に入り、以降は順調に進んだ。真上から照りつける梅雨明け空の太陽がボンネットに反射して、カーブのたびに作家の目を射る。これが真夏だったら事故を起こしているかもしれない。彼は苦笑して、スピードを落としてからいちばん左の斜線へ車を移した。平日のせいで普通車はあまり多くない。その代わり、横の車線をびゅんびゅんと、地響きを思わせるエンジンの唸り声をあげて、トラックが何台も通り過ぎてゆく。作家はそれらを、諦めを含んだ目で見送った。
 やがて上下線が大きく離れ、緑深い山々の間を無骨な橋脚に支えられて、さらに高く低くなって続くようになった。丹沢山系へさしかかったのだ。ずっと上の方では薄い靄が棚引いて横たわり、視界をさえぎっている。夜ともなればそれは牙を剥いて山肌を伝いおり、高速の下の方まで覆い尽くすことだろう。都夫良野トンネルを抜けてこのあたりを走るのは、いつだって怖い。それは靄━━ときには霧に変化する━━のせいでもあり、離ればなれになった上り方面の高速をこうして見あげてもたらされる底知れぬ不安が生み出した恐怖だった。下から見あげる橋脚は無骨ながらとても頼りなげに見える。もろい部分をさらけ出して、山肌に縋りついているみたいだ。テロの標的になったり、地震で崩れ去ったって、まったくおかしくない。そのときに、このあたりを走っているのは絶対に嫌だ。でも、作家はどうしても考えてしまう。もしこの場所でこんな事態に遭遇したら、とフィクションをこしらえて現実味を付加するのは、妄想を売り物にしている立場にある者の特権だ。ただ一つ難点があるとすれば、そのとき弄んだ妄想があまりに真実味を帯び出して、気分を悪くさせることがままあるということだ。事実、作家はそんな目にあったことがある。そのとき助手席には婚約者がいて、次のサービス・エリアで休んだ。さりながら、現在、横浜をあとにして中伊豆に向かう作家運転するデミオは何事もなく順調に、東名高速の下り車線を走ってゆき、丹沢山系にさしかかり最初の中継点に近づいている。
 鮎沢パーキング・エリアまで四キロ、という標識が目に入った。そのまま車を走らせ、パーキング・エリアの進入路へ車線変更する。道は大きく回りこむようにして半円の弧を描き、駐車場に入った。ここで作家は待ち合わせをしていた。婚約者に頼みこんで休憩した、情けない思い出がある場所だ。同時に、彼女の違う側面が堪能できた場所でもあった。それゆえにここを待ち合わせの場所に選んだ。閑散とした駐車場にデミオを停めて車から降りて、ぐるりを見渡した。どのみち、それほど広いパーキング・エリアではない。すぐに相手の姿は認められた。そのとき、人目を忍ぶ恋をしている気がした。世間の倫理に背いた恋であるのはじゅうぶん承知している。だが、それでもいい、と彼は思う。そんな恋だってこの世にはあるのだ。
 藤棚の下のベンチに、満面の笑みを湛えてソフト・クリームを舐める女性がいた。作家はそちらへゆっくり足を向けた。片手をあげて接触を試みる。その女性はすぐに気がついて、腰をあげて陽光の下へ出た。相手の足許から正方形のアスファルトが敷きつめられた路面(その継ぎ目からは勢いよく雑草が生えている。どんな環境、どんな条件下でも生命は芽吹き、育つのだ)へ伸びる黒い影を見た。太陽の下でそれがあるのを確かめられるのは、なんとも気分のいいものだった。
 麦わら帽子をかぶったその女性が、こちらへ歩いてくる。自分でもそれと知らぬ間に涙を流していた。随喜の涙だった。彼は差し出されたソフト・クリームを一舐めすると、目の前にいる妻をかき抱いた。ソフト・クリームがシャツにくっついたが、気にはしなかった。はらり、と落ちた麦わら帽子が二人の足許に転がって、数回転して勢いを失うと、頭頂部を下にして止まった。妻が身をよじっても、作家は腕の力を弱めようとしなかった。彼女は観念した表情でつま先立ち、ソフト・クリームを持っていない方の手を伸ばし、夫の首へ絡めた。目が合うと、さも当たり前のように唇を重ねた。
 「もう少し背が伸びますように、ってお願いすればよかったかなぁ」と彼女がぼやいた。
 「そのままでじゅうぶん」吹き出すのをこらえながら、作家はいった。
 「それはあなたの言い分でしょ? わたしはさぁ……まぁ、いいか」
 両頬をふくらませてこちらを見あげる妻の肩へ手を置いた。そうして、妖しの力へ感謝を捧げた。それを望む者にのみ力は振るわれる。ああ、まったくその通りだ。が、願いには代償が付き物だ。代償としてお前の命を差し出してもらう。よみがえりの樹の下で妻を託した相手は、あのとき作家の耳許でそう囁いた。あと四年の命だ、それを定めと心して生きるがよい。逃れることはかなわぬ。ならば、と作家はつらつら思う、与えられた命があと四年なら……如何にしてこの歳月を愛する死者と共に、悔いることなく生きてゆくかを考えよう。
 「あなた?」と妻が呼びかけた。どうした、と見ると、彼女はゆっくりと唇を開いた。「例え結果がどうなろうとも、チャンスを与えてくれてありがとう」
 いや、と夫は頭を振った。「俺は為すべきことをしただけだよ」
 二人はデミオに乗りこんだ。しばらく走ってから、妻がぽつり、と呟くようにいった。
 「ただいま」
 妻の手に自分の手を重ねて、作家は返事していった。「おかえり」と。◆
【小説】『それを望む者に』完


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