第2115日目 〈【小説】『それを望む者に』 19/20〉 [小説 それを望む者に]

 教えてほしい、これからどうすればよいのかを。沈黙の掟なんてものが横行していいはずがない。だから、教えてくれ、我が妻よ。だが、それに答える者はいない。妻は隣にいるけれど、今日はまだ一言も、彼女の口から言葉が洩れてこない。答える変わりに、彼女は傍らに立って、夫の肘の少し下を両手で握り、怯えの色を隠せぬ眼差しで彼を見あげていた。
 作家は妻にちらり、と目を走らせただけで、すぐに桜の木を見あげ、そのままあたりへ視線を走らせた。空の色が既に宵刻の訪れを知らせている。林も原っぱも、背後の洞を持った松の木も、色を増してゆく暮色のなかで沈むように眠りへ就こうとしていた。風のそよぐ音も、鳥の鳴き声も、なにも聞こえない。森は、沈黙したままだ。不安と予感を孕んだ大気が彼らの周囲で渦巻き、何事かが起きるのを待って息を潜めている。
 肘の少し下を触る妻の手が離れた。なぜかは知らない。作家はもう一度、桜の木を見あげた。自分はここで、道の向こうから誰かがやって来るのを待っているのだ。そんな思いが、心のなかでじわじわと広がっていった。比例するように、だんだんと気持ちが落ち着いてくるのも感じていた。
 するとそのとき、つむじ風が巻き起こった。池の面はそれでも波一つ立たなかったが、原っぱの鷺草はざわめいて乱れて緑の海にさざ波を立てている。 作家は妻の体をかき寄せたが、いたずらに空を掻くばかりだった。まわりを見まわそうとしても、風に嬲られてそれもできず、ただ背中を曲げ、首を亀のようにすくめ、顔を背けて、曲げた両腕をあげて、なんとか身を守ろうとするので精一杯であった。彼の足許の叢(くさむら)に、この状況下でなくても不自然な程まっすぐな窪みが生まれ、そのままよみがえりの樹目指して走っていった。それは根元まで辿り着くと這うように幹を駆けあがり、そのたびに不快な音を立てて樹皮を剥いでゆく。つむじ風が去ってからそこへ目をこらすと、赤みのさした黄土色の木肌に殆どまっすぐな筋を描いて上へ伸びている。
 と、よみがえりの樹が震えた。枝が揺れ、葉のぶつかる音が頭上から降ってきた。その葉が、幾枚もはらはらと舞い落ちてきた。刹那の間、妻のことを忘れ、目の前で震えて唸り声をあげる桜の木へ見入っていた。やがて幹の樹皮様が奇妙な具合に歪んだ。『ウルトラQ 』のオープニングでマーブル模様が捩れて様々に形を変えてゆく場面を、作家は思い出していた。堅固に思えた幹の樹皮は内側へぺろり、と落ちこみ、徐々に幅を広げてゆき、だいたい五〇センチばかしの穴が生まれた。幹の内側にできた穴は深紅に塗られており、ときどきその面を樹液が垂れ落ちて、不気味に鼓動をしていた。
 驚愕の表情で見守っていたとはいえ、これが現実に目の前で起こっている現象であるのを、作家はちゃんと了解していた。幻覚と疑うものはなにもなかった。眼前で起こった出来事が偽りであるなら、今日この御澤山へやって来たこと自体が実は夢のなかの出来事であったといったって過言ではないだろう。
 彼は生唾を呑みこんで、一歩、桜の木へ歩み寄った。実在したよみがえりの樹を見出した喜びと、果たして本当に伝承通りの結果がもたらされるのか、という不安を抱きながら。
 そのときだった、
 「復活を求めるはお前か、男よ?」
 くぐもった声は穴の奥底から聞こえてきた。発声は幾分不明瞭ながら、さっき唐松の林のなかで聞いたのと同じ声だ。ついでにいえば、妻があの晩見せた《像》のなかで聞いたヴォータン神とも同じ声である。
 いつしか、幹にぽっかり空いた穴から薄桃色の光が放たれ始めた。光量がだんだん強まってゆく。その輝きのなかから、頭巾の付いた長衣をまとった者が現れ、作家の前に立った。背は作家よりずっと高い。優に二メートルを越えているだろう。作家自身身長は一七六センチあったが、それよりも頭一つ分は高い。叢まで裾を引きずった長衣は、周囲が宵闇に埋まるなかでも銅色に輝いていた。動いてこちらへ近づくたびに、衣の皺が青と緑を基調とした色に変わる。その様を、作家は信じられぬ思いで見つめていた。頭巾にぽっかり開いている顔の部分は濃い影が落ちて、表情どころか輪郭さえ判然としない。例え真夏の午後の陽射しの下にあっても、ただひたすら漆黒の闇に似た影を湛えるばかりであろう。作家は数歩後退ってこわばった顔で、長衣をまとった者を見あげた。眼球に相当するものだけでも闇に浮いていたら、と思うが、それすら見えそうになかった。やがて長衣の者が、すっ、と片手を差し出した(そのときになって、もう片方の手に水晶を固めて伸ばしたような透明な杖が握られているのに気がついた)。作家は無意識に手を伸ばし、相手の手を握った。つるつるの皮膚の感触は、人間の肌というよりも蝋人形のそれに近い。総毛立った。口腔から肛門へ冷たい棒を射しこまれたような気分になった。
 長衣をまとった者は、作家の瞳に恐怖が宿っているのを無視するようにして、じっと作家を見おろしている。そもそも目があるかどうかもわからないのに、視線を感じるなんておかしな気分だが、そのうちになぜ相手が無言でこちらを見おろしたままなのかに思い至った。そう、相手は作家に訊ねたはずだった━━、
 作家は、震える声をどうにか抑えながら、「そうだ」といった。
 長い沈黙が訪れた。少なくとも、作家には何分にも思える沈黙だった。こちらの心の底まで探るような視線を感じる。不安が徐々に大きくなってきた。門前払いを食らわされたらどうしよう、と心配を抱き始めたときだった。
 「結果がどうなろうと悔いることはないな?」
 「あいつが帰ってくるなら、後悔なんてしない」
 喉の奥、渇いた唇の間から、斯くも力強い言葉が出てくるとは、我ながら意外だった。処刑を前にした英雄のような気分でもある。わたしは愛する民のために戦った、
 「復活は一度のみと承知しているな?」
 「復活は一度のみ。ああ、承知している」
 その者の言葉をおうむ返しにしたことで、契約が締結されたのがなんとなくわかった。もう後戻りはできない。妻のよみがえりは《彼》と桜の巨樹を媒介とする妖しの力へ委ねられたのだ。自分の関知せざる領域へ、永遠の伴侶は束の間の旅に出た。いまや不安は消え、希望だけが目の前に広がっている。そう信じたい。
 作家は相手の手に、デイ・バッグから出した妻の遺灰(骨壺からプラスチックのボトルへ移し替えたとはいえ、それでもじゅうぶんに重たかった)に衣服と写真、そして解約をしなかった妻の携帯電話を渡した。ややあって、すーっ、と耳のすぐ近くへその者の気配が動いてきた。相手は低い声で、作家だけにしか聞こえない程度の声で囁いた。それは代償を求める言葉だった。よみがえりには必ず代償が付き物だ。それを聞いて、作家は自分の背中に氷柱が添えられたような気分を味わった。が、頷くより他はなかった。再び妻と暮らすことが出来るなら、と。
 あたりはもう一度薄桃色の光に包まれた。それは、さっきよりも強い輝きを放っているようだった。目を眇めて腕をかざして桜の木を見ようとしても、光の筋が眼を射して数秒と開けていられない。目蓋を閉じても薄桃色の光はまだ作家の目から消えようとしない。が、やがて光は弱まってゆき、長衣の者が現れて語りかけたときのように、完全に周囲から消え去った。
 恐る恐る目を開けてみる。あたりは暮色が落ちて、見あげるようにして立つ眼前の桜の木を覗いては輪郭がはっきりしない。幹に開いた穴もすでになく、樹皮に走って抉った線もどこにも見当たらない。さっき無意識に《彼》と呼んだ長衣の者の姿も、薄桃色の光が薄まってゆくと共にかき消えていっていた。
 復活は一度のみ。だが、妻が帰ってくるならそれでいい。
 デイ・バッグを背負い、去り際に彼はもう一度桜の巨樹を仰ぎ見た。そうして、愛情と希望のこもった声で、妻の名前を口にした。君を想えば夜も短い。悠久の希望よ、絶えることなく彼の人の前を照らせ。絶えることなく我々の行く手を照らし続けよ。刹那、彼女の気配がすぐ傍でしたが、それと気づかぬうちに消えた。巨樹の幹がわずかに震えたように見えたが、すぐに収まった。何事もなかったかのようにあたりは深閑とした空気に包まれた。
 しばらくの間、木の下にたたずんでいたが、「待っている、何年でも」と呟くと、踵を返してその場を立ち去った。松の木と祠を横目に池の淵をめぐり、唐松の林のなかへ。ここに至るまでの行程を逆にたどり、木々のさざめきと夜の鳥たちの歌声を聞きながら。

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。