第2110日目 〈【小説】『それを望む者に』 14/20〉 [小説 それを望む者に]

 下調べをしてきたとはいえ、現地に行ってみないとわからないこともある。それを作家は思い知った。立川駅から武蔵五日市駅を経て北白川新線に乗り換えるまでに、予想外の時間を費やしてしまった。後悔あとに立たずとはこういうことか、と彼は心のなかで唸り声をあげる。午前十時頃に横浜駅を出発して、北白川駅に着いたら午後二時を疾うに回っていた。
 溜め息混じりで北白川駅南口の改札を出る。駅前のロータリーへ出た。午後のけだるい陽光の下で寝そべる犬のような、もんわりとした空気が微風に流れて作家の肌を撫で、ロータリーの中央に植えられた樺の木の葉群を揺らしてゆく。ロータリーにはバス停が幾つかと、タクシー乗り場が見える。四つある停留所に、停まっているバスはない。数人の客が待ってるだけだ。タクシーが二台客待ちしていた。運転手は外に出て暇そうに車に寄りかかって、煙草を吸って談笑している。右手のずっと奥の方に、稜線を際立たせた奥多摩連峰が鎮座していた。
 バスが来そうな様子はない。作家はぶらぶら歩いて、観光案内の(縮尺や距離を無視した)看板をぼんやり見あげて御澤神社を探した。ずっと離れて書かれているが、本当にこの通りなのかな、と小首を傾げて考えてみる。振り返って山を打ち眺めてから看板に目を戻すと、方向すら間違えているような気がしてならない。しかし、と作家は腕組みするのをこらえて、口のなかで呟いた。神社行きのバスに乗ってしまえばあとは終点まで揺られていけばいいんだから、そう深く考える必要もないか、と。まぁ、それはそうなのだが、それをいってはお終いである。
 作家は改札にいちばん近い停留所から、順に行き先を確認していった。御澤神社行きのバスが出るバス停は、改札からいちばん遠い場所にあって、傍らの木製ベンチには誰もいなかった。時刻表を見ると、いちばん早いバスは五分後に出発とある。ぼんやり突っ立っていると、鈍重なエンジン音を唸らせて埃にまみれた、クリーム地に緑色の縁取りを施されたバスが、のんびりとロータリーに入ってきた。どうやらこの街にはラッピング・バスは無縁の存在らしい。昔ながらの路線バスを久々に目にしたぞ、と作家は口許をほころばせた。
 バスは一旦、改札前で停車して(降車客がいるのだろう、と彼は見当をつけた)、すぐに作家のいるバス停に滑りこんできた。
 バスに乗って発車を待っていると、二組の夫婦と大きなリュックを背負った老女が一人、乗ってきた。運転手とは馴染みらしく、老女は快活な笑い声をあげて、リュックを降ろすと床にどすんと降ろし、手近の座席に坐りこんだ。二組の夫婦は明らかに作家同様余所者と見えた。やはり神社に行く人たちなのだろう、と何気ない風で車内を見まわして、作家は思った。そして、窓の外を見やりながら、耳をダンボにして、彼らの話を聞いていた。
 ━━バスの軽い揺れに身を任せながら、聞きかじった彼らの話をまとめてみる(作家の特権とも職業病ともいえる行為である)。どちらの夫婦も二ヶ月ぐらい前に近親者を亡くしているようだった。この日の翌日、近所の本屋で観光ガイドを調べてみたところ、バスの終点となる御澤神社とそれを中腹に抱く御澤山は霊場として信仰を集めた場所であり、葬って七十日経った頃にお参りすると死者そっくりの人に会えるのだ、という。みな、それを求めてきているわけだ。よく似た人に会える━━でも、俺は違うな、と作家は独りごちた。俺がこれから会いに行こうとしているのは、“そっくりさん”どころか本人なんだからな。
 バスは多摩川へ注ぎこむ楓川を渡り、北白川市の住宅街を縁取るようにして西へ伸びる道路を、とろとろと走ってゆく。右手には、楓川と道路の間に建つ、築年数のまだ浅いマンションがある。外壁はレンガを模したタイル張りで、半分以上のベランダには洗濯物がひるがえっている。布団を叩く音も、どこかから聞こえてきた。左手にあるのは、建売か注文かの別なく戸建て住宅が軒を連ねている。サイディングやリシン吹きつけの綺麗な色合いの外壁と、重厚さを演出している黒光りの門扉が道なりに並んでいる。壁の色に合わせた窓枠へ嵌めこまれた複層ガラスの窓は、灰色のカーテンが垂らされているみたいだ。売り主の意向か、門柱の脇の花壇にひょろひょろしたオリーブの木が植えられている。シンボル・ツリーだ。作家はその光景を頬杖をついて眺めながら、不動産販売会社で担当してきた物件や購入者の家族を思い出している自分に気がついた。
 バスは途中、何度か停まり、地元の人とわかる客がそのたびに一人、二人、と乗ってきた。あの老女はいつの間にかバスを降りていた。信号を過ぎたところでそれまで走ってきた道路を外れたバスは、勾配のきつい、ろくに舗装されていない坂道を、喘ぎ喘ぎしながら登った。二〇メートルぐらい行ったところで、道は一旦、平らになっていた。そこでしばらく停車した。この先は道が細くなり、すれ違うこともままならなくなるので、山を下りてくるバスを待っているのだ、と運転手がアナウンスした。了解だ、ボス。
 杉の木が道路のすぐ脇から生えて、山の面を覆っている。樹群のなかに目立たぬ構えの門が見えた。門柱に表札が掛かっているが、木肌が黒ずんでいて、ここからではよく読めない。目をこらしてみても無駄だ、と諦めた頃に、駅へ向かうバスが鈍重そうにすれ違っていった。ややあって、こちらのバスがエンジン音をがなり立てながら、神社目指して出発した。
 エンジンの音がやたらと耳につき、尻の下から激しい振動が突きあげてくる。上下の歯がかち合うほどだ。
 道を行くにつれて両側から杉やクヌギの木が威圧するように聳えて立ち、まだ陽は高いのに冬の黄昏時のように鬱然として薄闇に包まれ、冷気が窓ガラス越しに車内へ侵入して肌の下まで潜りこんでくるようだった。深山幽谷って、きっとこんな場所のことをいうのかもしれないな、と、心中納得した様子で作家は頷いた。陽の光を遮らんばかりに高く生育した樹木の群れが両脇に壁のように聳え立って、木下闇という風情ある言葉では一端なりとも表現できぬぐらい暗緑に闇の色を塗り重ねた空間を貫いて伸びる道を、バスはゆっくり進んでゆく。
 作家にはその道が、これから自分が禁断の領域へ足を踏み入れるのに相応しい花道のように見えた。傍らのデイ・バッグへ腕を回し、それをより強く自分の体へ密着させた。

 最後のバス停は、駐車場にあった。そこで降りれば、御澤神社への参道の入り口である。バスを除けば駐車場には、乗用車が一台停まっているきり。下車して作家は、バスの陰から二、三歩抜けて、ちょうど反対側にある乗車専用のバス停へ目を向けた。参拝帰りの客が十人以上いて、列を作っている。所在なげにぼんやりバスを見つめているが、気が急いてもうリュックを背負いこむ男もいた。
 駐車場を縁取るようにして整備された歩道を行き、あがりの低いコンクリートの階段が続く参道をのぼる。十分ばかり経ってからペースを落とそうと足を停めた。ふと、左手の食事処へ顔を向けた。店先に、黄色く日焼けした紙に手書きされたメニューが貼られている。「ぼたん鍋、ぼたん定食あり〼」とあった。
 猪か━━そう思うや腹が鳴った。が、いまは進まなくてはならない。鼻先をかすめる美味そうな匂いに背を向けて、脇目もふらずにずんずんと参道を、汗を垂らして歩いていった。前を行く参拝者の後ろ姿は、いまや小指の爪ぐらいの大きさに映っている。

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