第2111日目 〈【小説】『それを望む者に』 15/20〉 [小説 それを望む者に]

 正直なところ、ぼたん鍋の誘惑に何度か挫けそうになりながらも、半楕円を描く石畳の広場へ出た。それを囲むようにして常緑樹が群生している。何軒かの茶店が商いの最中だった。店先に幟が翻っている。広場を渡るそよ風が、作家の顔と腕を撫で、汗を引かせた。身震いした。さすがに、標高一千メートル近い山だと、風もやけに冷たく感じる。
 喉が渇いた。ミネラル・ウォーターでもアクエリアスでもいい、駅の自販機でペット・ボトルを買い求めなかったのは失敗だった。いちばん手近な茶店に入ったら、子供の時分によく飲んだ、懐かしいビン詰めのコーヒー牛乳が売られていた。でも、それは帰りに飲むことにした。それよりもそそられるものがあった。黒みつ寒天と抹茶を頼んだ。喉の渇きと空腹を鎮めるには、なかなか良いチョイスじゃないか。口のなかに、天草の上品な甘みがじんわりと広がった。
 真正面に三輪鳥居と呼ばれる黒ずんだ袖鳥居が、堂々たる立ち姿を誇っている。鳥居の足の間から、向こうに伸びて楼門まで続く参拝路が垣間見えた。参拝路の両脇にはこの広場同様、常緑樹が植わり群生していた。茶店の軒先に坐ってこうして眺めていると、その光景は、額縁にはめられた一幅の絵画のようだ。……うーん、これをいったのは、確か永井荷風であったか。つらつら出典を思い出しながら、抹茶の最後の一口を啜った。
 ごちそうさま、といって代金を払い、袖鳥居をくぐった。途中、遥拝殿へ行く道が枝分かれしていたが、いまは目的が違うので無視した。楼門をくぐり、参拝路を「往路」と書かれた札に従って、ずいずい歩く。往路と復路の間には、季節の花が植えられた、膝ぐらいまでの高さの花壇がある。いまはたもと百合を主役にして、蛍葛の青紫色の花が彩りを添えている。行く者帰る者の目を和ませる光景だった。なら、あの世から帰ってくる者の目も? そうかもしれない。そうであって悪いことはあるまい? 事実を知りたいなら、あとで妻に訊いてみればよい。作家は再び一本になった参拝路を進んだ。右手には、樹間から隠れるようにして建つ額殿と神楽殿がちらちら見える。どちらも一部分だけで全体が見えていないせいでか、神社に属する建築物というよりも、ゴシック・ロマンスに登場する妖しと偽りと恐れがうずまく古城のようだ。
 うんざりするほどなだらかな登り斜面の参拝路を来て、目前に迫った階段を息を切らしながら見あげた。てっぺんに、妻がいた。夫を、薄い笑みを浮かべて見つめている。
 ほらほら、ちんたらしないの。声が耳許で聞こえた。
 背負っているデイ・バッグの中身を頭のなかに描いた。この、およそ一般的とはいいかねる目的の日帰り旅行で、いちばん忘れてはならない大切な“アイテム”を幾つか。
 待っていてくれよ、と妻の名を呼んで、作家はそう口のなかで呟いた。もうすぐだからな━━。
 大きく肩で息をして、よっこらしょ、と階段をのぼり始めた。真ん中あたりまで来たところで「よっこらしょ」という言葉が、結婚したての頃、妻に決められた使用禁止言葉であるのを思い出して(彼女が死んでいま初めて使ったことも、併せて思い出した)、顔をしかめた。

 階段を終えて手水舎へ向かう作家の耳に、妻の声が聞こえた。足を停め、振り返る。参拝路を挟んだ反対側にある、腰高の木製の門の向こうに、彼女が立っていた。丸垣の間を奥に伸びた小道に、妻が立ってこちらを観ている。そちらへ吸い寄せられるように足が動いた。門に手が掛かる。閂で固く閉ざされていた。
 彼は身を乗り出して、妻の名を呼ぼうと口を開いた━━と、参拝路の方から妻とは違う視線を感じて、そちらを見やった。牛乳ビンの底をレンズにしたような眼鏡の奥から濁った瞳で作家を睨めつける、両頬がむくんで鼻が曲がった、髪は鋼をよじりあわせたみたいな風貌の老女が、がに股で立っている。目が合ったら、小さく舌打ちして階段を降りていった。なに、それだけの出会いだ。彼女はこのあと、参道の中程にある食事処で店員を口汚く罵った後に殺したが、それだけの話である。彼は老女の後ろ姿を見送りながら首を左右に振って、門の向こうの小道へ目を向けた。ちょうど妻が背中を向けて丸垣の向こうへ消えたところだった。彼は踵を返して、手水舎へ足を向けた。
 まずは参拝を済ませてしまおう。人気は少ないとはいえ、このままあの門を通って妻のあとを歩くのは賢明な判断とはいえない。ならば、時間稼ぎだ、参拝を済ませよう。そう作家は独りごちた。
 切妻屋根の下、水盤に掛けて置かれた柄杓の一つを手にし、作法に従って左手を清め、右手へ水をかけ、掌へ落とした水で口をすすぐ。杓に残った水で柄を清めてから、水盤に戻した。去り際にひょい、と水口を見ると、なるほど、龍だった。
 数段の階段をのぼって青銅製の明神鳥居をくぐって、拝殿の前に出た。瑞垣で周囲を囲まれて如何にも聖域といった趣の境内、そこに流れる空気は玲瓏で厳粛、文字通り身の引き締められる思いがした。そのなかにいて、ちょっと自分が浮いた存在であるのを感じる。ちょっと? だいぶ、の間違いだろう。これから禁忌を犯そうとしている自分を責め立てるなにかが潜んでいるように感じられてならない。だからといって尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかない。そんなところまで追いこまれているのも、彼はじゅうぶんに感じていた。小説家の仕事は小説を書くこと、小説家の真の職能とは傑作を生み出すこと。これはスティーヴン・キングと生田耕作の言葉である。だが、と彼は額に縦皺を刻んで、口のなかで否を唱えた。いまの俺━━いみじくも一応は小説家という職業に就いている俺がいまやろうとしている、この生涯最高の仕事は、神が生み給うた傑作をこの世に復活させることだ。これこそいまの俺が果たすべき仕事で、生涯を賭けた最大の仕事に他ならない。
 拝殿に着いて拝礼を済ませてから、鳥居まで戻ってみた。参拝路を見おろすとまだ人の往き来がある。ちょっと人目をごまかすには厳しいぐらいの参拝客が、そこここでゆっくり時間を過ごしていた。思わず毒づいて、しばらく境内をぶらつくことにした。
 拝殿の左手には社務所がある。その後ろには、鎮守の杜が広がっている。瑞垣はそれをぐるりと囲んで、杜へ分け入って見えなくなっていた。澄んだ空気を大きく吸いこみ、社務所の裏へ回った。瑞垣の近くまで歩いてくると、水の流れる音が聞こえたように思った。首をゆっくりめぐらせて瑞垣の手前まで移動すると、身を乗り出して眼下を覗きこんだ。樹の枝葉の間から、細い水の流れるのが見える。目をこらすと、苔生す岩に当たりながら流れる向きを替えて沢は蛇行しながら左手へ流れてゆき、やがて視界から消えた。
 さらに作家は目をこらした。汀にあって水中から伸びて群生しているのは水田芥子ではないだろうか。いつぞや妻と伊豆へ旅行した際、天城の山間を流れる沢で同じ植物を目にした覚えがある。彼女はそれを目にするやしゃがみこんで根削いで洗い、これおいしいんだよ、といって口に含んで咀嚼した。それを思い出して、作家は顔をしかめた。水田芥子の花言葉は「燃える愛情」だ、と妻に教えられたのを思い出したからだ。
 瑞垣を離れて社務所の脇を過ぎ、拝殿の前を通って境内の反対側に行ってみた。こちらはずっと開けた印象だった。杜は奥に引っこみ、樹木の陰が地面へ落ちていないせいかもしれない。それだけに瑞垣の出っ張りに立つ御神木が実際以上の存在感を持って目についた。黒ずんでごわごわした樹皮を持ち、落雷のせいでか太い幹は二つに裂けて伸び、頭上の空を覆い尽くさんばかりに大きく枝を張っている。息をも呑むばかりに堂々とした立ち姿に圧倒された。表現しがたい信仰心が湧きあがってをくるのを禁じ得ない。じっとしているとそのうねりに呑みこまれてしまいそうだ。作家はよろめきそうになるのなんとか抑えて、その場を離れた。あとで見たら、掌はじっとり汗で濡れていた。
 一歩ずつ御神木から離れるごとに、胸の圧迫される思いから解き放たれるような錯覚がした。刹那ながら頭の重くなるのを感じた。瑞垣まで歩いて手をかけ、落ち着こうとして長く息を吐いた。頭をあげると、木の間隠れに神楽殿の屋根が見える。それから何気なく下を見ると、さっき妻が立っていた、丸垣に挟まれた、門の向こうの小道が見えた。それは切り立った傾斜面から突き出すように見えている屋根の当たりで途切れていた。
 あの屋根はいったいなんだろう。もっと身を乗り出して確かめようとした。屋根の下から妻が姿を見せて、こちらを見あげた。そんなところでなにやってんの、とでもといいたげな顔だ。
 そりゃないだろう、と作家は口のなかで呟いて、━━足が地面から離れるのを感じた。体が軽くなった。やばいな、と作家は思う。ああ、この状況はやばすぎる。引力の法則に従って、斯くして彼は……落下してゆくのでありました。無声映画の字幕よろしくナレーションが脳裏に浮かんで、観客の喝采までが聞こえ、悲鳴をあげる間もないまま、作家はどさり、と地面に落っこちた。四メートルほどしたの、草生すやわらかな地面に、どさり、と。喉の奥から細切れに呻き声がもれる。目撃者は、傍らにしゃがみこんで額をぺちぺち叩く妻のみ。生ける者ならざりし妻、ただ一人。幸いなるかな、その事実に安堵して、焦点の定まらぬ目で妻と樹群を見あげた。作家はしばし横たわって、背中と腰の痛みに顔をしかめていた。

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。