第2112日目 〈【小説】『それを望む者に』 16/20〉 [小説 それを望む者に]

 体のあちこちが軽い痛みを訴えている。それに耳を傾ける余裕は、だがない。ふらふら立ちあがって視線を投げた左側には、木漏れ日の射す山林が広がっている。視界の上端でなにかが動き、つられてそちらを見あげた。林の中に立ってこちらを見ている妻がいた。
 手にしていたデイ・バッグを背負ってから、肩越しに参拝路を振り返った。誰もいない。念のため、上も見てみた。だいじょうぶ、瑞垣から下を覗きこんでいる物好きなんて、俺ぐらいのものだ。そう、そこにも誰もいなかった。さあ、行くとしよう。寸劇の幕があがる。
 妻へ大きく頷くと、作家は、人の手の入っていない林の中へ、道なき道を分け入っていった。

 地面には落ち葉が堆積していた。湿り気を帯びた土が、その所々から顔を覗かせている。林の中へ落ちる木漏れ日が地面を優しく照らし、あたりを静謐な光景に映している。
 それにしても、馴れぬ山歩きである。これまでの人生で山登りの経験があったかというと、実は二度ある。苦い思い出と甘い思い出が共存した、山登りの思い出。
 一度目は高校生のとき。毎春になるとご大層な名目の下に男子生徒のみが箱根連山へ夜明けから登らされた。金時山から矢倉岳まで約六〇キロの強行軍である。毎回脱落者が十名近くは必ず出て、脱落者を出した班には連帯責任の名の下に徹底的な体罰が待っていた。ひどいものだった。あの伝統はいつしか廃止されたと聞くが、体罰が原因で肺出血を起こして死んだ生徒がいるのを、高校は未だに公表していない。小説家としてデヴューしてしばらく経った頃、その高校から匿名であの事件については語らぬように、と箝口令じみた文書が届いたこともあった。だが、作家はいつの日かそれを書くつもりでいる。死んだ生徒は作家と同じ班にいた人物だったからだ。御澤山の斜面を歩きながらそれを思い出し、まったく呆れた話だな、と頭を振った。そしていつの間にか、作品のプロットを練ろうとしている自分に気がついて、呆れたような笑みを口許に浮かべた。
 あともう一回は、妻が一緒だった。それぞ甘美なる思い出、彼女が一緒にいればすべての過去はせつなさと甘酸っぱさを伴ってよみがえる、おお我が「バラ色の人生(ラ・ヴィアン・ローズ)」よ━━。まぁ、そんなところかもしれないな、と胸のうちでずっと昔、高校生の頃にラジオから流れてきて好きになった古いシャンソンの一節をなぞってみる。口の端からうろ覚えの歌詞をこぼしながら、二度目の山登りを回想する……婚約してさほど経っていない早春の鎌倉……鎌倉アルプスをめぐる天園ハイキング・コースを歩いて、自分と彼女の体力の差を感じた山登り。年齢差がここまで響くものか、と痛感させられ、疑問にも感じた山登りだった。あの山道もそれなりに難儀だったが、それでも人の手がじゅうぶんに入っていた、山登りといえるかどうかも怪しい山道ではあった。なによりも、鎌倉は金時山-矢倉岳と違って、一応の安全は保証されていた。それをいうなら、金時山-矢倉岳ラインとこの御澤山は似たようなものかもしれない。だが━━
 ━━いまの俺は義務や押しつけられて山道を歩いているんじゃない。すべては一つのために、一つはすべてのために。それ故に、俺は動く。妻のために、未来のために、例え結果がどうなろうとも、そこにわずかでも希望があるのならチャンスを生かすべきだ。悠久の希望は絶えることなく、彼の人の道を照らさなくてはならない。嗚呼、愛し子よ、君を想えば、夜も短い。
 ずっと前屈みになって歩いていると、腰が硬くなってくる。彼は立ち停まって、背中を伸ばした。胸を反らせて肩で息をする。そのたびに肺のずっと奥までひんやりした空気が入りこんできて、肺の壁を冷却させるように感じた。
 額の汗を腕で拭い、目をしばたたかせて、上の方を見た。なだらかな登り斜面が続いている。落ち葉と土に覆われた地面は、誰かに踏みしだかれた形跡はない━━少なくとも最近は。というのも、先人の落とし物ともいうべきものが、落ち葉の堆積する下に埋もれていたからだ。一メートルばかりの長さの、途中の参道沿いの土産物屋でも売られていた登山用の杖だった。湿気で表面に割れ目が走り、キノコまで生えている。誰が、どんな目的でここを歩き(どれぐらい前なのだろう?)、いかなる理由でここに杖を落としたのだろう。自分と同じで、この山の奥(のどこか)にあるよみがえりの樹を探していたのか。なんにせよ、ここを誰かが歩いていた証拠ではある。嗚呼、どうかこの杖の持ち主が遭難したり自殺したりしたのではありませんように。
 大きく息をついて、腰に手をやって、少し上の方にいてこちらを見つめている妻へ目を向けた。目が合うと、彼女は踵を返して馴れた様子で斜面を登り始めた。作家もそれに続く。重なり合った倒木を避けて通り、遠くに野鳥の鈍い鳴き声を耳にし、ひたひた忍び寄ってくる夕暮れの気配を感じながら、帰ってくる妻のことをひたすら考えて、作家は歩いた。
 五、六分歩いたと推測したちょうどそのとき、ひょい、と顔をあげると、行く手にはもう登り斜面が少なくなっていた。山頂に着いたのかな、と一瞬思ったが、すぐに考え直して否定した。そこが本当に山頂なら、山の稜線が右から左へ、下から上に走っているわけがない。俺は尾根に近づいているんだ。少しがっかりした━━山頂に着いたら、そこに誰もいなかったら、大空を仰いで何事か叫んでみるつもりだったのだ━━が、それでも登り斜面が終わりかけている事実に変わりはない。やれやれ、舞台のスポットライトのように木漏れ日が尾根に落ちて溜まっている。そのなかに妻がいた。まぶしそうに目を細め、手を額へかざして、頭上から降り注ぐ木漏れ日を笑顔で見あげている。
 もうすぐだからな、待っていろよ。作家はそう呟いた。一歩一歩、彼女の待つ尾根へのぼってゆく。それが、意外に遠く感じられた。

 隣に立っても妻はこちらを見なかった。どころか、なにも話そうとさえしてこない。
 でも、同じ場所に立って同じ風景を眺めているだけでよかった。昨日までの彼ならば相手の肩を抱いていただろう。いまはそんなことをする必要も感じない。小さな心境の変化だった。あとになってそれは自分の意志ではなく、樹の意志だったのかもしれない、とふとした折に考えるようになるが、いまはそこまで考えをめぐらせることはできなかった。ただ同じ風景を一緒に眺めていることに幸福を感じているだけだった。
 尾根の草むらにできた日溜まりのなかで十羽近くの雀が、さえずりながらちょこまか移動して、地面にうごめく虫をついばんでいる。頬をゆるませて妻に教えようと、作家は妻の方へ振り返った。どこにも彼女はいなかった。足を踏み出すと草にすべって尻餅をついた。顔をしかめて立ちあがると、斜面をくだった夏草の生い茂るなかに、こちらを見あげる妻がいた。切迫したような眼差しをしている。彼は頷いて斜面を下り始めた。のんびり油を売っている場合じゃないよな、ごめんよ。妻の名を呟いて、そう心のなかで謝った。
 やがて、これまでよりはなだらかな斜面に出た。唐松が林を作っている手前まで歩を進めた。陽射しをさえぎる鬱蒼とした林の薄暗い闇へ目をやると、あたりにバリトンの深い声が響き渡って、作家の耳を聾した。
 従え、そうして、務めを果たせ。
 四囲に声の主は見当たらない。病院から帰った晩に妻が見せてくれた〈像〉の中で聞いた声と━━よみがえりの樹への道をたどる途中で聞いた声と、同じ声だった。
 俺を導く者の声だ。作家は口のなかで呟くと、デイ・バッグを背負い直し、林へ、力強い足取りで歩いていった。その様子を振り返って見つめていた妻が、頬をゆるませて小さく頷いて、再び先導するために歩き出した。声と妻に導かれて、作家は林のなかへ入っていった。

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