第2113日目 〈【小説】『それを望む者に』 17/20〉 [小説 それを望む者に]

 林のなかでは、唐松の枝と針状の葉が重なり合って西日の熱を遮断し、その残光を細い帯へ変えて、土と落ち葉の上に矩形の溜まり日を作っている。それをたどるようにしてうねうね蛇行して、御澤山の西の斜面を下りてゆく。時折林をひんやりとした風が通りすぎていった。
 新婚旅行先のモルディブでの出来事を、思い出した。時折こちらを振り返る妻と目が合ううち、記憶の底から偶然掘り起こした思い出だった。
 あれは到着して何日目のことだったろう。いまと同じで夕暮れ刻だった。
 長編小説の決定稿を仕上げて午睡のまどろみから覚めた作家は、ベッドから起きあがると、寝ぼけ眼で妻の姿を探した。ベランダへ出て、コテージの三方を廻っても彼女はいない。泳いでいるのかな、と海中へ伸びる階段を真ん中まで降りてみても、姿は見えなかった。水が砕けたり、跳ねる音もしない。聞こえるのはコテージとベランダを支える杙へ静かに打ちつけ砕ける波の音ぐらい。念のため、階段からコテージの下を覗いて、床下と、コテージと島を結ぶ桟橋の下も探してみたが、どこにも人のいる様子はなかった。
 頭を振りつつ不安でたまらなくなった心をどうにか落ち着かせながら、コテージのなかへ戻った。もしや、とバスルームの扉を思い切り開けてみた。コーナー出窓が付いたバスルームに、妻の姿は見当たらない。使われた様子もなかった。もしや、誘拐されたんじゃあるまいな、えーと、まずはフロントへ電話して警察を呼んでもらわなくっちゃ、と髪を掻きむしる寸前の心境で、作家は、顔が青ざめてゆくのを感じながら、コテージのなかをうろうろ歩き回った。むふぅ、と鼻息を荒く鳴らして足を停め、バスルームの扉の陰に隠れていたランドリー・ボックスに、バス・タオルが掛けられているのを目に留めた。あんなの、午睡の前はなかったぞ。胸のなかで呟きながら、彼はそれに歩み寄った。恐る恐るそのバス・タオルを取り除けてみる。と、そこに妻の、折りたたまれた下着の上下とドレスが置かれていた。
 ぼんやりとそれを見おろしながらその場に突っ立っていると、桟橋の方から、聞き覚えのある、こらえるような熱い吐息がかすかに聞こえた。眉間に縦皺を刻んで、そちらへ摺り足で近づく。桟橋には腹這いになってあらぬ方角を一心に見つめている妻がいた。
 彼女の視線の先にあるものがなにかも知らず、寝汗で固くなりごわごわになった髪を掻きむしって、その場に立ったまま、作家は、
 「なにやってんの?」
と訊いた。
 ひっ、と短い悲鳴が妻の口から洩れた。背を反らせてこちらを見あげる眼は大きく開かれている。目が合うや、指を唇へあてて、しーっ、しーっ、と黙るように促した。「早くしゃがんで! これからいいところなんだから」
 なんのことやらわからぬまま、妻の横にしゃがんで腹這いになり、事情を訪ねようとしたが、それよりも早く彼女の指さす方角へ視線を投げて、ああなるほどね、と合点した。そうして、おいまさか一日三回でも欲求不満か、と空恐ろしさを感じた。
 「━━あのさ、ずっと見ているの?」
 「うん」と夫を見ずに頷いた。「シャワー浴びようとしたら、あのコテージのカップルがおっ始めてくれたからさ」
 「だからって覗き見する?」
 そういいつつ作家の目も、妻と同じものを真剣に見つめている。妻が横目でそれを認めて、肘で小突いた。
 「自分だって見ているくせに。もう熱くなってきちゃっているんじゃないの? まぁ、私も人のことはいえないけれどさ━━っ、おおっ!」
 隣で唾を呑みこむ音がはっきり聞こえた。口から洩れる溜め息も、いつもよりずっと熱くて……妻も夫も、なんの変わりもない。彼らは桟橋に伏せたまま、隣のコテージのカップルが傍目にもわかるぐらいに絶頂を迎えるのを、つぶさに見つめ続けた。……むろん刺激されて二人はその場で貪るように荒々しく唇を重ね、バスルームへ移動してたっぷり何度もまぐわった。
 そうそう、そんなこともあった。作家は苦笑混じりに頷いた。年齢と体力を考えたら早く子供が欲しかったし(妻の方に事情があってすぐには子作りへ取りかかれず、そのうちにあんな事故が起こってしまったわけだけれど)、十六歳も年下の、かわいいと綺麗の間をたゆたう女の子をお嫁さんにしたら、そりゃあ誰だったがんばるよな。
 幸せと悲しみが綯い交ぜになった笑みをを浮かべた。がんばろうね、と妻の声が耳許で聞こえた。それが自分の生み出した幻聴だとはもうわかっている。自分の記憶のなかに仕舞いこまれ、自分に都合よく加工され編集された偽りの妻の声であることは。でも、いまはそれに縋りたかった。わずかでもチャンスがあるのなら、それに縋るのは当然じゃぁないか?
 唐松の林はまだ続く。斜面はわずかながらなだらかになったように感じる。進む先には唐松の林が続いていた。木の陰から、妻の後ろ姿が見え隠れしている。飄然と彼女は去ってゆき、と彼は呟いた、作家は彼女を追った。

 湿った土を踏みしめて、ところどころに露出した根っこにつまずかないよう注意しながら、林のなかを歩いていった。
 足の裏で、なにかが乾いた音をたててつぶれた。その音は耳のすぐ近くでしたように聞こえた。生々しいその音に心が動揺しなかったといえば嘘になる。彼は足を停め、恐る恐る足許を見やった。足をゆっくりどかしてみる。松ぼっくりの残骸が転がっていた。まるで骨が踏まれて砕け散ったような光景だった。松ぼっくりの粉微塵になった部分は、ヤスリで削ってその場に撒き散らした骨粉のようだ。
 作家は大きく喘いで手を離した。膝と両掌を土と落ち葉の上について、ぐったり頭を垂らした。デイ・バッグが肩からずれて腕に垂れた。汗がこめかみから頬を伝って顎や首筋へ流れ落ちる。
 斜面の下から鳥の鋭い鳴き声が一度だけ聞こえ、羽ばたいて空へのぼってゆく音がした。うなだれたままそちらへ投げた視線が、ある一点で固定された。ひゅっ、と喉が鳴って、目を見開いた。信じられない、だが、あれは現実だ。砂漠の彷徨者が幻で見るオアシスなんかでは、断じてない。だって、そこにあるのは……
 ……よみがえりの樹を探す唯一の手がかりとなる池だったから。
 拳にした手で腿を叩いて、よろよろと彼は立ちあがった。引き寄せられるようにして足が勝手に進む。さっきの鳥なのか、鳴き声がずっと上から聞こえた。もう作家はうち仰いでそれを見ることはせず、ただ歩き続けた。よみがえりの樹が傍にあるという、深山の奥のなお奥つ方に確かにあった池を目の前にして、彼はゆっくり歩き続けた。

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