第2114日目 〈【小説】『それを望む者に』 18/20〉 [小説 それを望む者に]

 池の向こうから林の方へ微風が吹き寄せてくるのを感じた。彼は唐松の林を抜けたところでちょっと足を停め、小首を傾げて池を眺めた。なにかがおかしいぞ、とマック・テイラーの声色で独りごちた。ペンライトを手にしていたら、きっと池の方向を照らしていたことだろう。
 しばらく池とその向こうの林をじっ、と観察していて、小さな違和感を感じたその理由がわかった。池の上を風は渡ってくる。本来なら水面にさざ波が立って然るべきだろう、なのに、池の面はひたすら静かに沈黙を守っていた。波一つ立たず、変わらず四囲の景観を映し続けている。
 なるほど、と彼は呟いて、ゆっくり歩を進めた。やわらかな下草を踏みつけて、唸るような溜め息を口の端から洩らしながら、汗をしとどに吸いこんで臭くなったハンカチで額から頬、首筋の汗を拭った。さっきから唇が乾いて困る。冬場でもないのに、ひび割れを起こしそうなほどだった。
 池の淵まで来たところで足を停めた。池は見おろす彼の姿を当たり前のように映し出している。がやはり、池の面を渡ってくる風は波を立てることも、彼の姿を歪めることもしなかった。
 腰に手を当てて、あたりを見渡した。奇異な光景が目に入った。蔓草と蔦が傍らの古木の枝から垂れて、なにかを隠す目的で互いの身を寄せ合いよじらせ、地面から緑色の塚を築いている。幾重にも重なり、やたらと強固に見える。それは、なにかを、びっしりと覆っていた。
 周囲の光景への溶けこみ具合と来たら、注視しなければ見落としそうなぐらい。だが、明らかに異質な光景でもあった。自然に作られたのだろうが、あくまで結果に過ぎない。
 彼は、緑色の塚から目をそらさず近づいた。まるで一瞬でも目を離したら、たちまち消えてしまうとでもいうような雰囲気である。近づく足取りは慎重で、抵抗をやめた犯人に歩み寄る警官みたいだ。
 塚の前で膝を折り、しゃがみこんで蔦と蔓草を手で払った。蔦と蔓草の壁は存外に頑丈で手こずるが、丁寧に、左右へ薙ぎ払った。その下にあるものがあたかも聖遺物であるかのように。作業を進めるたびに、手が緑色に染まる。植物の茎を折ったときの匂いも、鼻先をかすめていった。最後に残った蔓草と蔦の壁へ両手の指先を押し込んだ。そうして、左右へそっとかき分ける。これまでと異なって、なんの抵抗もなかった。
 蔦と蔓草をすべて払うと、塚のなかから祠が姿を現した。相当昔に造られ手入れする者も最近はなかったようで、木材は黒ずんでひび割れ、湿気を大量に含んでキノコの苗床になっている。なんだか見てはいけないものを目にした気分になり、作家は蔓草と蔦の壁で覆い隠すようにしてから合掌して立ちあがり、そこから離れた。
 祠を背にして三、四歩歩き、ポケットに手を突っこんで、踵を返してうち仰ぐ。その視線の先に、池の上にまで大きく枝を張り出して、人一人がじゅうぶんに入れなかをうろつけるだけの空間を持つ洞がぽっかり開いた、祠を隠していた蔦と蔓草を枝から伸ばした老松の巨木があった。夕暮れが迫り、松の木は夕陽を背にしている。枝の間からオレンジ色の陽射しが通り抜け、作家の目を射した。掌を目の上にかざし、仰ぎ続けた。
 これがよみがえりの樹なのだろうか、と自問する。いや、そうではない、と彼は自答した。妻が見せたあの《像》でよみがえりの樹は桜の木だったのではあるまいか。あの桜を探せ、と彼女はいわなかっただろうか。一つのチャンスにすべてを賭けるため、そのときが来たら自分をあの桜の木のある場所へ連れていってほしい、と妻はいったのではなかったか。それに被さるようにして、ヴォータン神を思わせるバリトンの声が告げなかっただろうか━━それを望む者のみがそこへ辿り着く、と。
 そう、自分の前に立ちふさがるようにしているこの松は、よみがえりの樹ではない。でも、この近く……とても近い場所に、よみがえりの樹はある。《像》のなかでも感じたような、この世のものならざる雰囲気がいまや現実感を伴って、自分の周囲を包み、露出した肌という肌を舐めるように覆い尽くそうとしているのを感じる。
 彼はなんの気なく身をかがめて、洞のなかを覗きこんだ。コウモリがいやしないか、とびくついたが、勇気を奮って足を踏み入れた。ひんやりしている、というよりも、寒かった。胸の前で両腕を組み合わせ、掌で反対の二の腕をさすった。頭上の漆黒のなかに潜むやもしれぬ輩にビクビクし、首をすくめて背中を曲げて、洞のなかをうろついてみた。外から見て感じたよりは、ずっと広い。入った途端、自分の体が縮んでしまったような錯覚さえ感じるほどだ。幹の反対側に開いた洞は、作家が入ってきたよりもずっと小振りだった。妻なら頭から入りこんでどうにか脱出できるだろうが、作家には無理だ。その小振りな洞から外を覗いた。作家は自分の目を一瞬疑い、手で目をごしごし擦って、目をしばたたかせ、深呼吸して、もう一度、洞から外を覗いた。すると、それがそこにあった。

 求めたそれが、そこにあった。よみがえりの樹が、洞から覗いた外にあって、作家を歓迎している。よみがえりの樹はやはり桜の木だった。この松の木と同じかそれ以上かもしれない樹齢の、枝に青葉を豊かに茂らせる老いし桜の巨樹であった。
 作家は外に置いたままのデイ・バッグを取りに戻った。祠の横を迂回して松の木の裏に回る。猫の額ほどの幅の鷺草の原っぱを渡り、桜の木の前に立った。根元にうずくまっていた妻が顔をあげた。待ちくたびれた、とでもいわんばかりの表情だった。
 作家は彼女の顔を見て、訊ねた。
 「さて、これから俺はどうすればいい?」

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