第2132日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第4章:〈使徒の使命〉with隣国の友輩よ、……!〉 [コリントの信徒への手紙・一]
コリントの信徒への手紙・一第4章です。
一コリ4:1-21〈使徒の使命〉
──宜しいでしょうか。こうした次第で世の人々はわれら使徒をキリストに仕える者、神の秘めたる計画を委ねられた管理者と考えるべきでしょう。この場合、管理者に求められるのは<忠実>であります。
わたしは世の人々から裁かれることについて、思うところはなにもありません。自分で自分を裁くこともしません。自分にやましいところはなに一つないけれど、それを以てわたしが義であるわけでもないのです。
兄弟たちよ、知っておいてください、──
「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」(一コリ4:4-5)
ここまでわたしはアポロと自分に当て嵌めて、あなたがたのなかの分裂、分派について述べてきました。自分たちを例にしたのは、これによってあなた方に<書かれているもの以上に出ない>ことを知ってもらい、また、あなた方のうち何人と雖も尊大になったり、或いは誰かを蔑ろにしたり見下したり、差別したりしないようにしてほしいからです。
顧みれば神はわれら使徒をまるで死刑囚の如く最後に引き渡される者とし、世界に対しても天使に対しても見世物としました。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。」(一コリ4:10)そうして、「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべての者の滓とされています。」(一コリ4:13)
このようなことを書くのは、あなた方に恥ずかしい思いをさせるためではありません。わが愛する子らへの諭しであります。わたしは福音を通して、キリスト・イエスに於いてあなた方を設けたのであります。
あなた方はわたしに倣いなさい。そのためにもそちらへわが協力者テモテを派遣します。かれは主に忠実です。これまで諸所の教会で教えてきたのと同様に、コリントでもキリスト・イエスに結ばれたわたしたちの生き方を、あなた方のなかへ思い起こさせることでしょう。
あなた方の一部の人々は、もうわたしがそちらへ行くことはない、と踏んでいるようですね。が、主の御心によっていますぐにでもそちらへ行くこともできるのですよ。その際には、あなた方のなかにいる高ぶった人の力を拝見するとしましょう。かれらにとって神の国は言葉ではなく、力にあるわけですから。お手並みをその際は是非拝見したいものです。
コリントの兄弟たちよ、あなた方がわたしに望むのはどちらですか。鞭を持っていくことですか。それとも、愛と柔和な心で訪問することでしょうか?
たしかに信仰の世界を形成するなかで、使徒はいちばん割に合わない役柄かもしれません。パウロ自身本章で告白するように、使徒は見せ物、一種の大道芸人的扱いであります。愚者にして弱者、身なりは乞食同然で虐げられ、この空の下に寄る辺なく、辛うじて日銭を稼いで生きる身の上。「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」(一コリ4:12-13)す存在。
が、それゆえにかれらが神から与えられた使命、果たすべき役割は頗る付きで重要でした。使徒なくしてナザレで始まったイエスの教えが広まることは不可能で、かれらこそキリスト教伝播と浸透の要だったのです。──見方を変えれば、或る面でかれらこそが<隅の親石>的存在であるのでした。いちばん顧みらることのない者が、いちばん重要な役目を果たす。キリスト教の広まりという点で使徒や福音宣教師が担った役割、その仕事ぶり、刻苦精励は、われらが思うている以上に実は大きかったのかもしれませんね。
コリントへパウロが派遣した協力者テモテについて、改めて紹介しておきましょう。初登場は使16:1、パウロの第2回宣教旅行の折でした。小アジアはパンフィリア州リストラ出身の若者で、父はギリシア人、母は信仰篤いユダヤ人でした。テモテは「リストラとイコニオンの兄弟たちの間で評判のよい人」(使16:2)だった。パウロはかれをどうしても随伴者としたく、普段は行わない割礼の儀式をかれに対して執り行い、ユダヤ人の反発を避けて、晴れて旅の友としたのでありました。
パウロが本書簡に認めた一節、「テモテをコリントへ派遣します」に対応するのは使19:22。このときパウロはアジア州エフェソに滞在しており、第3回宣教旅行の途中でした。また、一コリ16:10-11でも触れられております。パウロ書簡の一、「テモテへの手紙」はむろん、かれに宛てられた書簡であります。
もちろん完全なる理解も習得も不可能事だけれど、旅行先の国の文化や言葉などを、事前に知識として仕入れておく。
それは海外旅行のマナーだと思うておったのだが、これは万国共通でなく単に日本だけのものだったのかな。日本の常識は世界の非常識、って、この点については該当しないと思う。この認識が間違いでないことを祈る。
隣国の友輩よ、恥を顧みよ。◆
一コリ4:1-21〈使徒の使命〉
──宜しいでしょうか。こうした次第で世の人々はわれら使徒をキリストに仕える者、神の秘めたる計画を委ねられた管理者と考えるべきでしょう。この場合、管理者に求められるのは<忠実>であります。
わたしは世の人々から裁かれることについて、思うところはなにもありません。自分で自分を裁くこともしません。自分にやましいところはなに一つないけれど、それを以てわたしが義であるわけでもないのです。
兄弟たちよ、知っておいてください、──
「わたしを裁くのは主なのです。ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません。主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。」(一コリ4:4-5)
ここまでわたしはアポロと自分に当て嵌めて、あなたがたのなかの分裂、分派について述べてきました。自分たちを例にしたのは、これによってあなた方に<書かれているもの以上に出ない>ことを知ってもらい、また、あなた方のうち何人と雖も尊大になったり、或いは誰かを蔑ろにしたり見下したり、差別したりしないようにしてほしいからです。
顧みれば神はわれら使徒をまるで死刑囚の如く最後に引き渡される者とし、世界に対しても天使に対しても見世物としました。「わたしたちはキリストのために愚か者となっているが、あなたがたはキリストを信じて賢い者となっています。」(一コリ4:10)そうして、「今に至るまで、わたしたちは世の屑、すべての者の滓とされています。」(一コリ4:13)
このようなことを書くのは、あなた方に恥ずかしい思いをさせるためではありません。わが愛する子らへの諭しであります。わたしは福音を通して、キリスト・イエスに於いてあなた方を設けたのであります。
あなた方はわたしに倣いなさい。そのためにもそちらへわが協力者テモテを派遣します。かれは主に忠実です。これまで諸所の教会で教えてきたのと同様に、コリントでもキリスト・イエスに結ばれたわたしたちの生き方を、あなた方のなかへ思い起こさせることでしょう。
あなた方の一部の人々は、もうわたしがそちらへ行くことはない、と踏んでいるようですね。が、主の御心によっていますぐにでもそちらへ行くこともできるのですよ。その際には、あなた方のなかにいる高ぶった人の力を拝見するとしましょう。かれらにとって神の国は言葉ではなく、力にあるわけですから。お手並みをその際は是非拝見したいものです。
コリントの兄弟たちよ、あなた方がわたしに望むのはどちらですか。鞭を持っていくことですか。それとも、愛と柔和な心で訪問することでしょうか?
たしかに信仰の世界を形成するなかで、使徒はいちばん割に合わない役柄かもしれません。パウロ自身本章で告白するように、使徒は見せ物、一種の大道芸人的扱いであります。愚者にして弱者、身なりは乞食同然で虐げられ、この空の下に寄る辺なく、辛うじて日銭を稼いで生きる身の上。「侮辱されては祝福し、迫害されては耐え忍び、ののしられては優しい言葉を返」(一コリ4:12-13)す存在。
が、それゆえにかれらが神から与えられた使命、果たすべき役割は頗る付きで重要でした。使徒なくしてナザレで始まったイエスの教えが広まることは不可能で、かれらこそキリスト教伝播と浸透の要だったのです。──見方を変えれば、或る面でかれらこそが<隅の親石>的存在であるのでした。いちばん顧みらることのない者が、いちばん重要な役目を果たす。キリスト教の広まりという点で使徒や福音宣教師が担った役割、その仕事ぶり、刻苦精励は、われらが思うている以上に実は大きかったのかもしれませんね。
コリントへパウロが派遣した協力者テモテについて、改めて紹介しておきましょう。初登場は使16:1、パウロの第2回宣教旅行の折でした。小アジアはパンフィリア州リストラ出身の若者で、父はギリシア人、母は信仰篤いユダヤ人でした。テモテは「リストラとイコニオンの兄弟たちの間で評判のよい人」(使16:2)だった。パウロはかれをどうしても随伴者としたく、普段は行わない割礼の儀式をかれに対して執り行い、ユダヤ人の反発を避けて、晴れて旅の友としたのでありました。
パウロが本書簡に認めた一節、「テモテをコリントへ派遣します」に対応するのは使19:22。このときパウロはアジア州エフェソに滞在しており、第3回宣教旅行の途中でした。また、一コリ16:10-11でも触れられております。パウロ書簡の一、「テモテへの手紙」はむろん、かれに宛てられた書簡であります。
もちろん完全なる理解も習得も不可能事だけれど、旅行先の国の文化や言葉などを、事前に知識として仕入れておく。
それは海外旅行のマナーだと思うておったのだが、これは万国共通でなく単に日本だけのものだったのかな。日本の常識は世界の非常識、って、この点については該当しないと思う。この認識が間違いでないことを祈る。
隣国の友輩よ、恥を顧みよ。◆