第2136日目 〈コリントの信徒への手紙・一 第8章:〈偶像に供えられた肉〉withインチキエンザに屈した日のこと。〉 [コリントの信徒への手紙・一]

 コリントの信徒への手紙・一第8章です。

 一コリ8:1−13〈偶像に供えられた肉〉
 今度は偶像に供えられた肉についてお話ししましょう。あなた方コリントの兄弟たちは知識のあることを誇っています。まぁ、知識のあるのは事実でしょうが、同時にそれはあなた方の驕りでしかありません。
 あなた方は自分が何事をも知っている、という。が、それはなにも知らない、ということでもあります。本当に知らなくてはならぬことを、あなた方はまだ知らない。真に知恵ある者とは自分が無知であるのを思い知っている者なのですよ。
 また、愛は造りあげるものであることを知ってください。それは神への愛です。神を愛する者は神に知られた者でもあります。よろしいですか、われらは神に帰り、われらは主により存在するのです。
 が、この知識を誰もが持つわけではありません。つまり、──
 「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。わたしたちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません。」(一コリ8:7−8)
 知識あるあなた方のこうした自由な振る舞いが、弱い人に感化してかれらもこれに従うようになったらどうでしょう。知識が弱い人を滅ぼす、ということになりはしませんでしょうか。あなた方によって感化された弱き兄弟たちのためにもキリストは死んでくれたのです。あなた方は兄弟に対して罪を犯したことになります。かれらの持つ弱き良心を傷附けることは、キリストに対しても罪を犯すことでもあるのを知ってください。
 最後に話を元に戻しますが、もし食物のことがわれら兄弟をつまずかせる原因となるならば、わたしは金輪際、肉を口にはしません。

 偶像に供えられた肉という喩えはともかくとして、皆が知識ある者と見做す者、尊敬する者が自分の気儘に振る舞えば、弱き人にはそれが<正しいこと>であるように受け止められ、かれらも同じように振る舞うであろう、という点に、わたくしは注意を促したく思います。
 本章は会社勤めをしている人で、役職者/管理者の立場にある者は傾聴すべきでありましょう。その実体は中途半端な知識、体裁を取り繕うような対応であっても、それを上の立場の者が行えば、確かな知識や適切な対応を持ち合わせていない人の目には<正>と映ってしまい、かれらを右に倣えさせてしまう。
 これは良くない。無知の者に罪を犯させるのは知識ある者の自負、慢心、驕りである。上の者が持つ誤った知識が他の者を見当違いの方向に導き、傷附けてしまう。古今東西を通じて普遍的な見解でありましょう。わたくしも驕ることなく絶えず自分の知識を点検して、再び戦場と化しつつある職場に戻りましょう(この比喩、まさにその通りなのだ!)。



 インフルエンザと疑われても時期的には仕方のないただの風邪を引いて珍しく会社を休んだ今日、それでもやはり起きている時間はあるので、これもまた久しぶりにマイケル・ジャクソン『GHOST』を観たのですが、残念なことに風邪薬の副作用で眠くて眠くてたまらなくなってきたから、これの感想とか抱き続けている感慨についてはまた後日とさせていただきたく存じ上げ候。ちゃお!◆

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