第2172日目 〈コリントの信徒への手紙・二第5章2/2、第6章&第7章1/2:〈和解させる任務〉&〈生ける神の神殿〉〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第5章2/2、第6章と第7章1/2です。

 二コリ5:11-6:13〈和解させる任務〉
 主に対する畏れがどのようなものであるか、それを知るわれらは人々の説得に努めます。神がありのままのわれらを知るように、あなた方にもわれらをありのままに知ってほしい。なにもあなた方へセルフ・プレゼンテーションするつもりはありません。ただあなた方へ、内面ではなく外面を誇るような人々に応じられるよう、われらのことを誇る機会を提供しているのです。
 「わたしたちが正気でないとするなら、それは神のためであったし、正気であるなら、それはあなたがたのためです。なぜなら、キリストの愛がわたしたちを駆り立てているからです。」(二コリ5:13-14)
 人々が生きているのは自分自身のためではなく、自分たちのために死んで復活した方のためです。その方のために生きるのだ、と心に刻め。
 ゆえにわれらは今後、肉によってキリストを知ったりしない。かつてはそうであったとしても、これからはそうではない。キリストと結ばれる人は誰もが新たに創造された人。つまり、古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた、ということなのです。
 神はキリストを仲介として、われらを神と和解させた。また、われらには和解のために奉仕する役目を授けた。それがどういうことか、といえば、こういうことである、──
 「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。」(二コリ5:19-20)
 キリストに代わってあなた方へお願いします。神と和解させてもらいなさい。神は罪となんの関わりもない方をわれらのために罪と定めて死なせました。その方によってわれらは神の義を得られたのです。
 もう一つ。われらはあなた方へ勧めます、神からもらった恵みを無駄にしないように、と。預言者イザヤの書に、恵みの時にわたしはあなたの願いを聞き入れ、救いの日にわたしはあなたを助けた、とあるからです。
 いまや恵みの時。いまや救いの時。
 われらは自分たちの行う奉仕の務めが非難されたりしないように、如何なることであれ人々に罪を犯す機会を与えず、あらゆる場面、あらゆる事態に際して神へ仕える者として行動しています。かりに鞭打ちや監禁、暴動、貧困、飢餓、苦難などに直面したとしても、われらはそのように行動します。純真、知識、寛容、親切、聖霊、真理の言葉、嘘偽りのない誠の愛などによって、われらはそのように行動します。両手に義の武器を持ち、悪評を浴びたとしても、好評を受けたとしても、栄誉に浴すときも辱めを受けるときも、そのようにわれらは行動します。われらは<無>のようでいて、実は<有>なのです。
 咨、コリントの兄弟たちよ。われらはあなた方へ飾ることなく語り、大きく心を開きました。「わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています。子供たちに語るようにわたしは言いますが、あなたがたも同じように心を広くしてください。」(二コリ6:12-13)

 二コリ6:14-7:1〈生ける神の神殿〉
 あなた方へいうておきます。信仰なき人々と一緒に不釣り合いな軛につながれて、そのまま生きるようであってはならない。正義と不法の間にどのようなかかわりがあるでしょう。キリストとベリアルの間にどんな調和がありましょう。信仰と不信仰の間にどんな関係がありましょう。神の神殿と偶像に、果たしてどんな一致が?
 われらは生ける神の神殿なのです。かつて神はこういいました。曰く、──
 「『わたしは彼らの間に住み、巡り歩く。/そして、彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。/だから、あの者どもの中から出て行き、/遠ざかるように』と主は仰せになる。/『そして、汚れたものに触れるのをやめよ。/そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、/父となり、/あなたがたはわたしの息子、娘となる。』/全能の主はこう仰せられる。」(二コリ6:16-18)
 愛する人たちよ、われらは斯様に約束されているのですから、肉と霊がもたらすありとあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れて完全な聖なる者となろうではありませんか。

 ……新共同訳の当該章を併せてご覧いただけば一目瞭然でありますが、本稿がわずかに言葉と表現を換えただけの、全節引用に等しくなってしまったことをお詫びしなくてはなりません。どうにも手に余り、こうした結果になってしまった。いつもではないか、といわれれば返す言葉がない。でも、読者諸兄よ、今日の箇所は本当に辛かった。肉体を傷附けられて血を流した思いだ。ここ数日の執筆でいちばんの不調を自覚している。何ヶ月か何年後かに書き直したいものです。
 書き終えた直後の打ちひしがれた言葉は以上として、以下2点について註釈めいたものを。
 二コリ5:16,肉によってキリストを知る。「肉」とは霊によってキリストを知る以前の状態をいう。その頃は霊による統一的な認識基準がなく、各自の自己認識、自己基準、自己判断によって、キリストというものを理解していた。即ち、人によって良きようにも悪きようにもキリストを受け止めていた、ということだ。われらは既に福音書や「使徒言行録」にて、イエスや使徒たち、パウロの反対者としてそれらの人々を見てきた──ファリサイ派、律法学者、ユダヤ人、異邦人、エトセトラ。
 パウロがもはや、肉によってキリストを知ることがない、というのは、霊によってキリストを知った人は新しくキリストと結ばれたのだから、つまりそれは新たなる創造、再生に浴したことを意味し、そうした自分たちを誇れ、というのであります。
 二コリ6:15,キリストとベリアルにどんな調和がある? 「ベリアル」はヘブライ語でアウトサイダー的存在を指し、たとえば箴6:12、同16:27「ならず者」の訳語であるそう。「ベリアル」という語では、聖書全体を通じて本日のこの箇所にのみ登場。ここではキリストと対になる存在として出ており、(ユダヤ人にとっての)サタンの蔑称として用いられております。
 キリストとベリアル/サタンの間にどのような調和があり得ようか? いや、そんなものはない、というのが、どうやら回答のようでありますね……。

 本日の旧約聖書は二コリ6:2とイザ49:8、二コリ6:16とレビ26:11-12とエレ32:38及びエゼ37:27、二コリ6:17とイザ52:11とエレ51:45及びエゼ20:34、二コリ6:18とサム下7:8-14とイザ43:6及びエレ31:9並びにホセ2:1。◆

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。