第2174日目 〈コリントの信徒への手紙・二第8章:〈自発的な施し〉、〈諸教会からの使者〉with音楽を聴く環境を取り戻そう!〉 [コリントの信徒への手紙・二]

 コリントの信徒への手紙・二第8章です。

 二コリ8:1-15〈自発的な施し〉
 コリントのあなた方にマケドニア州の諸教会で、自発的に行われた善き施しについてお話ししましょう。
 マケドニアの信徒たちは苦しみによる激しい試練を受けていました。にもかかわらず、かれらからは満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったのです。かれらは自分たちから進んでわたしに、聖なる者たちを助けるための慈善の業の奉仕に参加させてほしい、と願い出ました。かれらはわれらの期待以上に、主に、次いで神の御心に添ってわれらへも自分自身をささげました。
 そこでわれらはテトスに、この慈善の業をあなた方コリント教会の信徒たちの間で始めたからには完遂するよう勧めました。というのも、コリントの信徒たちはマケドニアの信徒たち以上に信仰に篤く、われらから受ける愛など、すべてに於いて豊かだったからです。この慈善の業でもあなた方が豊かになりますように。
 わたしがいうのは命令ではなく、試しです。愛の純粋さを量るための。他と比較して、それがどれだけのものかを量るための、試しなのです。主は豊かであったのにわれらのために貧しくなりましたが、それは主の貧しさによってわれらが豊かになるためだったのです。
 この点について私見を述べましょう。あなた方はこうした自発的な施しについて他に先駆けて実行したのみならず、発案そのものも同じく他より先んじていました。だからこそ、あなた方はそれをやり遂げるべきです。「進んで実行しようと思ったとおりに、自分で持っているものでやり遂げることです。進んで行う気持ちがあれば、持たないものではなく、持っているものに応じて、神に受け入れられるのです。」(二コリ8:11-12)
 他の人々が楽をして、あなた方が苦労をする、ということではありません。釣り合いが取れるようにするのです。あなた方の現在のゆとり、即ち豊かさが他の者の欠乏を補うとすれば、いつの日か、かれらの豊かさがあなた方の欠乏を補うこともあるだろう、ということです。釣り合いが取れるようにするとは、こういうことです。

 二コリ8:16-24〈諸教会からの使者〉
 自ら進んでそちらへ赴こうと準備するテトスに、われらはもう2人、同行者を従けます。かれらは諸教会が任命を受けた信頼の篤い人です。任命はわれらの行う慈善の業に参加するためでした。われらはこの惜しまず提供された募金について誰からも非難されないようにしています。
 「これらの兄弟について言えば、彼らは諸教会の使者であり、キリストの栄光となっています。だから、あなたがたの愛の証しと、あなたがたのことでわたしたちが抱いている誇りの証しとを、諸教会の前で彼らに見せてください。」(二コリ8:23-23)

 本日の第8章と明日の第9章で、エルサレムへの募金の件が語られます。既に一コリ16:1-4にてエルサレム教会への募金が支持されていますが、ここではマケドニア州各地の教会と比較し、なかば競うようにしてコリントの町の豊かさに応じてもっともっと募金活動に励みなさい、という風に読み取れてしまい、文章の裏に見え隠れするパウロのしたたかさと相手を煽る能力を感じ取らずにはいられません。
 補足致しますと、本章並びに次章はロマ15:26-27「マケドニア州とアカイア州の人々が、エルサレムの聖なる者たちの中の貧しい人々を援助することに喜んで同意したからです。彼らは喜んで同意しましたが、実はそうする義務もあるのです。異邦人はその人たちの霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります。」の背景となる箇所であります。
 パウロがテトスに従ける2人の名前は今日に伝わっておりません。仮定する材料もない様子であります。

 本日の旧約聖書は二コリ8:15と出16:18。



 人間の細胞は7年周期で入れ替わる、とは事実なのか。根拠がある話なのか、定かではない。日本版『ウィアード・テールズ』のどの巻かで当時の寄稿作家がエッセイに書いていた説だけれど、わが身を顧みてその節を思い浮かべて、さもありなん、と首肯する機会は多々ある。
 種々の要因が重なって現在、これまで以上の規模と深度のルネサンスが訪れたことを感じている。火事で失うまで持っていたアナログ・プレーヤーとミニコンポ、CD/MDラジカセを追憶すること近頃は頓に多く、そろそろ支払う先も金額も少なくなってきたこと、本ブログが完結を視野に入れたこともあり、そろそろ「趣味;音楽鑑賞」に立ち返れそうだな、と思うた気持ちが、ルネサンスの下地にある。
 いまAmazonのオーディオのページを見ていたのだが、オーディオから離れていたこの10年近くでこの世界はずいぶんと変化したな。なによりもPCデスクトップオーディオって凄いや。でも、正直なところ、PCを音楽生活の中心にはしたくないのだよね。これは中学生の頃から自分のなかに染みついた<常識>と<ノスタルジー>と<かくあるべし>なのだろう。というか、きちんとコンポがあってアナログ・プレーヤーがあって、という形でないと落ち着かない。
 アナログ・プレーヤーについてはデノンのDP500MやEACのTN-350-CHなど、わたくしの望むスタイルを持ったプレーヤーはまだ健在である。勿論、パソコンやiPhoneに収まる音源が再生できないのは困るし、LPの音が取り込めないのも困るから、デノンのプレーヤーは第二候補と(残念ながら!!!!!!!!)なってしまうのだが。
 再生装置を調えてゆく余裕が生まれるのは、今年も後半のことになるだろう。それまではBOSEのPCスピーカーを買って渇きを癒やすことにする。◆

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