第2192日目 〈むかし愛読した作家、源氏鶏太『青空娘』が復刊されたのでさっそく購入しました。〉 [日々の思い・独り言]

 明日からの読書再開に備えて、今日はTwitter並みに短く。
 『ダ・ヴィンチ』誌は毎号読んでいます。それなりに熱心に隅から隅まで目を通していると思います。本屋さんの棚の前で立ち読みして、新刊情報だけじっくりとね。たいていはその段階で絶対購入しよう、という文庫は記憶に刷りこんでいるのだが、時に疲れた目に留まらず華麗にスルーして、発売日に出ていることを知って腰を抜かすことも、まぁ、よくあるといえばそう言えなくもない頻度で、ある。
 今日(昨日ですか)もそんなことがありまして。
 わたくしが20代の頃かしらね、母が若いときに読んだ作家で源氏鶏太という当時の流行作家がいたのだが、買い物帰りに一緒に寄った図書館の文庫コーナーでそれを教えられて以後、古本屋で源氏鶏太の文庫を買っては母に渡して、楽しく読んでいる姿をうれしく思いながら見たものだ。買い集めた文庫は一冊も欠けることなく、火事をくぐり抜けたいまも、赤川次郎の文庫と一緒に廊下の文庫棚へ保存している。
 母の影響を抜きにしては考えられないが、かりに戦後日本の好きな作家を5人挙げよ、といわれれば、わたくしにとって源氏鶏太はけっして名前を欠くことのできない存在である。
 21世紀の現在、源氏鶏太はまず顧みられない作家である。かつて中公文庫で、河出文庫で復刊されたが、前者はエッセイ集、後者は源氏鶏太らしい一作だがゆめ代表作とは言い難い長編。それとて今日、都心の巨大新刊書店の棚に残っていれば万々歳だ。
 仕事が昼で終わった土曜日、例の如くスタバに立てこもって別の原稿を書いていたのだが、どうにも煮詰まって灰色の脳細胞も停止を要求し始めた。チョコレートを飲んで糖分補給すればどうなる、というレヴェルではなくなっていたのだ。
 そこで原稿は途中ながら切りあげて飄然とそこを立ち去り、線路の反対側にある新刊書店へ。店の前で時折行われているワゴンの古本市を流し、店内で雑誌や海外文学の棚を見、上階の文庫売り場に足を向け、いつも通り警戒の眼差しを向けられながらちくま文庫の棚の前に来たとき、其奴は唐突にわたくしの眼前に出現したのである。振り向いたらそこにはゴジラがいて、こちらを睨みつけていました、というぐらいに唖然としたね(昨夜、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』を観ていたんだ)。
 ──源氏鶏太『青空娘』が平積みされているのを目にした途端、もう20年近く前の母と自分を思い出しましたよ。講談社文庫だったと思うけれど、通い詰めた古本屋で購入して母が読み終えたあと、こちらも和室で腹這いになって読み耽ったものだったな。源氏鶏太についてはそんなのんびりした読書の記憶に満ち満ちている。バブルが崩壊して就職浪人を余儀なくされた時分だったにもかかわらずね。
 今回の復刊について注文を付けるとすれば、作品のセレクションは別にして、1つだけ。特に獅子文六で成功したからとて帯の惹句は少々煽りすぎだ。も少し冷静になろうよ。知らないのはあまりに勿体ない、といいたくなるのはわかるけれど……。
 最近のちくま文庫ってかつての流行作家の作物を復刊させるとき、やたらと空々しい美辞麗句を並べ立てる傾向があるよね。なんだかそれが鼻について、獅子文六なんて特に遠避けたのだけれど、源氏鶏太となれば話は別だ。伊勢神宮について書かれた文庫と一緒にレジへ運びましたよ。それがかつての愛読者の務めだぜ。
 いまもこの原稿をiMacで書きながら(新沼謙治の「ふるさとは今もかわらず」を聴きながら)傍らの『青空娘』を横目に見ているが、しかし残念ながら書店で邂逅するのはチト遅かった。ド氏を手にしてしまったからなぁ。仕方ないからド氏は通勤時の友として、源氏鶏太は就寝前の一刻の楽しみに取り置こうか……。
 然るべき時に然るべき相手と出会えないのは、不幸だね。
 謝っておく。Twitter並みに短くしようと心掛けたのだが、やはりいつもとあまり変わらない分量になってしまった。
 それでは読者諸兄よ、また明日。この時間、「ガラテヤの信徒への手紙・前夜」にて再び会おう。ちゃお!◆

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