第2235日目 〈ペーター・マーク「モーツァルト交響曲集(付《大ミサ曲》)」を聴きました。〉 [日々の思い・独り言]

 モーツァルトを不得手としていたわたくしも、いまやそれなりのモーツァルト好きである。不得手の時代、モーツァルトが好き、といえるようになりたくて、コンサートでも音盤でも様々な作品を聴いていたが、どうにも、ピン、と来ず、その度にいつかモーツァルトが好きといえる日が来るんだろうか、このままモーツァルトの素晴らしさがわからないまま命を空しうするのではないか、と思い詰めたりしていたっけ。
 でも、それなりの量の演奏を、たくさんの時間を費やして聴いてきた蓄積だったのだろうか、或る日突然わたくしはモーツァルトの恵みを受けてその福音を江湖へ伝える使徒に変貌したのだ。大袈裟? 勿論、百も承知! そう、それは本当に突然のことだったな。そのときのことは未だ言葉にできないし、おそらく今後もそうであろう。ただ、その道均しをしてくれた記念碑的演奏はよく覚えている。シャロン・カム独奏のクラリネット協奏曲が前哨となり、ペーター・マーク=スイス・ロマンド管/ロンドン響とカール・ベーム=ウィーン・フィルによる交響曲集が決定打となった。以来、弾みがついたようにわたくしは、それまでに増していろいろなモーツァルト作品を目で見、耳で聴き、体で感じてゆくようになる。前世紀末のことだ。
 その頃と記憶する。輸入盤を扱う大手CDショップにてマーク指揮するモーツァルトの交響曲と大ミサ曲のCDを見附けたのは。聞いたことのないイタリアの小レーベル(ARTS)、聞いたことのないイタリアの地方オケ(パドヴァ・ヴェネト管弦楽団)であることも、さして気にならなかったよ。わたくしをモーツァルト好きにしてくれたマークの指揮で聴けるモーツァルトであるならばね。
 売価の安さと相俟ってまとめ買いしたCDを仕事から帰ってきたあと、1枚ずつじっくりと聴いてゆくのが当時のいちばんの楽しみだった。改めてモーツァルトの音楽の素晴らしさに素人ながら感激していた。当時のピュアな気持ちはいったいどこへ?
 残念ながら当時購入したARTSレーベルの日本語解説附きCDはいずれも理由あって処分してしまったが、今年2016年になってから『レコード芸術』誌を立ち読みしていると、いつしか廃盤となっていたらしいこのコンビによるモーツァルト作品が全点、東武レコーディングからリマスタリングされて再販される旨告知されていた(ベートーヴェン交響曲全集が同時発売)。
 発売当日にさっそく他のCDと一緒に買いこんできて聴いたけれど、もっさりして輪郭のややぼけた演奏が解像度の高い演奏に生まれ変わり、みずみずしい響きがまるで原盤に収められた演奏とは別物に思えてしまった。以前は余程ボリュームを上げないと潰れて聞こえなかった木管楽器の音がきちんと聴き取れるなどということも含めて、今回のリマスタリングは大成功というてよいと思う。おまけに、フルトヴェングラーばりのデモーニッシュさがより強調されて聴かれるようになったのは、いったいリマスタリング技術の勝利というべきか、それともこの間にいろいろなモーツァルト交響曲をいろいろな指揮者で聴きかつ得た知識に基づく色附けなのかな……。
 かつて発売されていたARTS盤を架蔵する人も今回の東武レコーディング盤は購入して座右に侍らすべきだと思う。スピーカーやヘッドフォンから流れてくる音楽を耳にすれば、ARTS盤とは殆ど別物の演奏と感じたというわたくしの告白にも首肯いただけることと思うのだ。それだけにライナーノーツのお粗末さにはがっかり。木之下晃によるマークのポートレートは良いのだけれど、ライナーノーツに関してはARTS盤の国内盤仕様に付されていた片山杜秀の解説も併録してほしかったな。まぁ、斯様な注文を付けたとはいえ、今回の東武レコーディング盤が貴重な復刻であるのは紛れもない事実である。
 東武レコーディングにはこのままARTSから発売されたマークの録音、つまりメンデルスゾーンの交響曲全集とシューマンの管弦楽伴奏附きピアノ作品集は勿論、ARTS HISTORICALから出ていたオーケストラ曲やオペラの復刻も是非に、とお願いしたい。それともこれって高望み? そうは思いたくないんだよね──。◆

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