第2258日目 〈テモテへの手紙・一第5章&第6章:〈教会の人々に対して〉、〈大きな利得〉他with「一テモ」読了の挨拶。〉 [テモテへの手紙・一]

 テモテへの手紙・一第5章と第6章です。

 一テモ5:1-6:2 1/2〈教会の人々に対して〉
 老人を叱るなら相手を自分の父親と思うて諭しなさい。
 同じように、相手が若い男なら兄弟と、年配の婦人なら母親と、若い女性なら清らかな心で以て姉妹と、それぞれ思うて諭しなさい。
 身寄りのない寡婦を大事にしなさい。もし寡婦に子や孫がいれば、その者たちに家族を大事にし、親に尽くして孝行するよう教えるべきです(自分の血縁者、特に家族の世話をしない者は信仰を棄てたも同じで、信仰のない人に劣ります)。神はそれを喜びます。身寄りのない寡婦は神に希望を置いて昼夜問わず一心に祈り、願いをささげますが、放埒な生活をして暮らす寡婦は生ける屍も同然です。
 寡婦として登録できるのは、なによりも1人の男の妻であった人、善い行いで評判の人でなくてはなりません。あらゆる善い業に励んだ人でなくてはならないのです。年若い寡婦を登録してはいけない。なぜならば彼女たちは一時の情欲に流されて信仰から離れ、相手との結婚を望むようになるからです。その後の彼女たちは堕落し続けます。「だから、わたしが望むのは、若いやもめは再婚し、子供を産み、家事を取りしきり、反対者に悪口の機会を一切与えないことです。既に道を踏み外し、サタンについて行ったやもめもいるからです。」(一テモ5:14-15)
 信徒をよく指導している、御言葉と教えのために労苦している長老たちには、倍の報酬が与えられて然るべきです。イエスの言葉にもあるように、働く者が報酬を受けるのは当然至極のこと。また、「申命記」にも、脱穀している牛に口籠をはめてはならない、とあります。
 これも「申命記」にあることですが、長老を訴えるならば2人、乃至は3人の証人が必要です。証人が揃っていない訴えを受理してはならない。棄却しなさい。
 罪を犯した者あらば皆の前で咎めよ。そうすれば皆が恐れを抱くようになるから。
 或る種の人々の罪はすぐ明るみに出て裁かれますが、なかなかそうはならない者もいます。実は善き行いも同じで、すくなくとも隠れたままということはありません。
 何事を行うにも偏見を持ってはならない。依怙贔屓をしてもいけない。誰かに手を置くのに性急になってはならない。犯罪に加担してはいけない。あなたは、「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 奴隷は自分の主人をじゅうぶん尊敬するようにしなさい。神の御名とわれらの教えが冒瀆されないようにするために。「主人が信者である場合は、自分の信仰上の兄弟であるからといって軽んぜず、むしろ、いっそう熱心に仕えるべきです。その奉仕から益を受ける主人は信者であり、神に愛されている者だからです。」(一テモ6:2)

 一テモ6:2 2/2-10〈大きな利得〉
 われらと異なる教えを説くのに熱心な者らがいます。かれらは信心に基づく教えやキリストの言葉に従わない者どもであります。かれらは一様に高慢で、一知半解どころか無知蒙昧の輩、加えて虚しい議論や口論に取り憑かれています。
 そこから妬みや中傷、邪推といったものが生まれるのですが、その背景にあるのは、精神の腐敗や真理への背反、信心を利得の手段とする考えであります。「もっとも、信心は、満ち足りることを知る者には、大きな利得の道です。」(一テモ6:6)
 というのも、われらはなに一つ持つことなくこの世に生まれ、なに一つ携えることなくこの世を去るからです。生きている間は衣食住が事足りていれば良い。そうではないでしょうか。
 金持ちになりたい。そう願う者もあるでしょう。気持ちはわからないでもないのですが、金持ちを目指す者は誘惑や罠、無分別で有害な様々の欲望に陥ります。お金への欲は諸悪の根源。その欲望が人を滅亡と破滅に陥れるのです──。

 一テモ6:11-21〈信仰の戦い〉
 テモテよ、わたしが述べてきた避けるべきことを避けなさい。
 正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。
 信仰の戦いを立派に戦い抜いて、永遠の命を手に入れなさい。
 キリストの再臨まで落ち度がなく、非難されることのないよう掟を守りなさい。神は定められた時にキリストを遣わしてくれます。
 この世の富者に命じなさい。高慢になるな、増えてもいつなくなるか知れない富に望みを置くな、と。われらすべての者を豊かにしてくれる神に望みを置くように、と。
 「善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように。真の命を得るために、未来に備えて自分のために堅固な基礎を築くようにと。」(一テモ6:18-19)
 あなたへ委ねられたものを守れ。無駄話や虚言、知識と呼ばれる反対論を避けよ。知識に溺れて信仰の道を踏み外した者もいるのだから。
 ──恵みあれ。

 気になるのは「知識と呼ばれる反対論」のこと。知識に足許を掬われて信仰から離れた者もいる、なる一節。これが初期キリスト教に於けるゾロアスター教の影響というのでしょうか。パウロ存命中にはユダヤ人や異邦人の間にゾロアスター教は入りこんできたといいますから、ここでパウロは暗にゾロアスター教を警戒せよ、キリストの福音を信じる者たちをそこから遠ざけて守りなさい、とテモテへ伝えているように読めてくるのであります。一度、そろそろゾロアスター教について概略なりとも調べてエッセイにしておく必要がありそうですね。
 牧者としての資格を語った後は、その立場に在る者が教会へ集う人々と如何に接するべきか、そのためのアドヴァイスが綴られる。特に寡婦への接し方については細やかな指示が下されています。パウロは寡婦を庇護するのに熱心であったのか、それともテモテが派遣されたエフェソの町には寡婦の信徒が多かったのでしょうか。もっと単純に、若い男であるテモテよ、寡婦に絡め取られて身を持ち崩すな、と遠回しに語っているのでしょうか。
 この点については勿論不明としか言い様がありませんけれど、万民に対してぶれることなき態度を取るように、というパウロのメッセージはしっかりと感じられますね。
 本日の箇所を読んで、非キリスト者であるわたくしのなかにずっしりと残ったのは、お金への欲望は人を破滅へ導き陥れる、という一テモ6:9の言葉。そうして、それ以上に、──
 「いつも潔白でいなさい。」(一テモ5:22)
 誤解され、謂われなき糾弾の対象となること偶さかあるわたくしは、この言葉を信じたいのであります。

 本日の旧約聖書は一テモ5:18aと申25:4、一テモ5:19と申17:6。
 参考として一テモ5:18bとマタ10:10、殊ルカ10:7。



 今夜の飲み会を愉しく、憂いなく過ごすため、休日の午前中を使って2章分のノートを書きました。ちょっとがんばったよ! えへ。
 さて。
 本日を以て「テモテへの手紙 一」を読み終わります。途中、平成28年熊本地震が発生、被災地へのメッセージで2日程中断しましたが、どうにかこの日を迎えられました。時間を割いて本ブログを読み、支えてくださっている読者諸兄に感謝します。
 なんの支障もなければ、そうしてわたくし側の事情がなければ、明日から「テモテへの手紙 二」を読み始めようと思います。この予定を実行できれば今月中に〈パウロ書簡〉はすべて読み終わることができそうであります。実現させたいなぁ。◆

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