第2260日目 〈テモテへの手紙・二第1章:〈挨拶〉&〈ゆだねられているものを守る〉withいつの日か、書きたいもの。〉 [テモテへの手紙・二]

 テモテへの手紙・二第1章です。

 二テモ1:1-2〈挨拶〉
 使徒パウロから愛する霊による子テモテへ。キリスト・イエスの命の約束を宣べ伝えるために、この手紙を送ります。父なる神と主により、キリストの恵みと憐れみと平和がありますように。

 二テモ2:3-18〈ゆだねられているものを守る〉
 わたしはいつも祈りのなかであなたを思い起こしています。あなたの抱く純真な信仰も併せて思い起こしています。その信仰はあなたの祖母ロイスに宿り、あなたの母エウニケに宿りました。あなたにも宿っていることでしょう、2人に宿ったのと同じ信仰が。
 その信仰ゆえ、あなたに洗礼を施したときあなたへ与えられた神の賜物を再び燃えあがらせることを奨めます。
 神がわれらに与えてくれたのは、臆病な霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊。為にあなたはわたしが主の囚人であるのを恥じてはならない。むしろ神の力を支えとし、福音のためにわたしと共にこの苦しみを忍んでください。
 キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくれました。わたしはこの福音のために宣教者となり、教師となり、使徒となった。それゆえに非道い苦しみを味わったのですが、特段それを恥じてはいません。というのも、──
 「わたしは自分が信頼している方を知っており、わたしにゆだねられているものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。キリスト・イエスによって与えられる信仰と愛をもって、わたしから聞いた健全な言葉を手本としなさい。あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。」(二テモ1:12-14)
 ──テモテ、あなたの知っているようにアジア州の人たちはわたしから離れてゆきました。そのなかにはフィゲロとヘルモゲネスもいます。そんななか、エフェソでわたしにとてもよく仕えてくれたオネシフォロは離れるどころか、わたしをしばしば励ましてくれました。また、わたしが囚人の身であることを恥ともせず、ローマに到着したのを知ると方々を捜し歩いて会いに来てくれたのでした。ああ、どうか主の日にオネシフィロが主により憐れみを授けられますように。そうして今日、主がかれの家族を憐れんでくれますように。

 他の書物、書簡には名前の出ない、出たとしても記憶を刺激されることのないぐらいの人物が幾人も出てまいります。内、例外と申せるのはテモテの母エウニケでありましょう。なんとなくギリシア風の名前ですが、彼女は使16:1に出る「信者のユダヤ婦人」であります。しばしば2つの名前を持つ人物が新約聖書には登場しますが、テモテの母も同じだったのかもしれません。もう1つ、ユダヤ人としての、それらしい名前を持っていたのかもしれない、ということです。
 テモテの祖母ロイス、アジア州の民でパウロから離れた者として特記されるフィゲロ、ヘルモゲネス。かれらがどのような人物であったのか、手掛かりは欠片1つも提供されません。
 が、やはりここにしか名前は出ませんが、オネシフィロについてはパウロとの関わりなど或る程度まで想像することができます。かれはパウロが宣教旅行の途次立ち寄ったエフェソにて献身的に尽くし、1回目の監禁か2回目の監禁かわからないけれど、囚われのパウロを熱心に捜して見附け出した程、パウロを思うた人でありました。さりながら本書簡が執筆された頃、オネシフィロはこの世の人ではなかった様子であります。といいますのも、パウロは本書簡の結びの一節のなかで、オネシフィロの家族に宜しく伝えてほしい、と書いているからであります。事実かどうか不明ですが、そんな憶測の余地を残す文言であることに違いはない、と思います。
 引用したテモテ1:13-14については既に〈前夜〉にて述べました。



 いつの日か、「人間の悪意について」書いてみたいと思います。これは昨年の夏ぐらいからずっと意識に上っては消え、を繰り返して執拗にわたくしのなかで澱のように存在しているテーマであります。
 倒れる前に、命運尽きる前に必ず……。◆

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