第2307日目 〈能と言える日本:世阿弥ノート──和歌から能へ〉 [日々の思い・独り言]

 能の完成者、世阿弥元清が81年の生涯に書き残した論書は、西尾実によると21種が確認されている、という。それらはいずれも皆、能に関するものであるが、読んでみての印象として特に『風姿花伝』と『花鏡』は歌論の趣を呈しているように感じられる。
 告白すればその印象は学生時代前掲2著に接して以来今日に至るまでずっと抱き続けているものであり、折に触れて繙くのは鎌倉期、殊に御子左家系列の人々の著した歌論へ接するのと似た思いからであった。能と和歌が密なる関係にあるため斯様な思いを抱くのであろうか。おそらくそうであろう、と自分では思うている。
 両者は深い所で源を同じうする芸術形態である。と同時に、和歌停滞の時代だからこそ誕生し得た、和歌を母体とした新しくも閉鎖的な芸術形態が能であり、それを窮極的な意味で完成に導いたのが世阿弥だったのだ。
 和歌を詠む者が『花伝』や『花鏡』を読むと、歌論を読むが如き思いを抱くのはなぜか。単純ながらも結論を述べれば、世阿弥は能楽を歌道と同様に1つの芸術様式として完成させ、<道>として確立させることを己が使命と自覚し、数多の論書を著すに際して歌人によって書かれていた歌論を意識していたがゆえであろう。試みに前掲2著から和歌について触れる部分を抜き出してみる、──

 『風姿花伝』序
 歌道は、風月延年の飾りなれば、尤これを用ふべし。

 同第六 花修云
 たゞ、やさしくて、断りの即ちに聞ゆるやうならんずる詩歌の言葉を、採るべし。

 『花鏡』幽玄之入レ限事
 ……言葉の幽玄ならんためには、歌道を習ひ……。

──能の台本を書く者に和歌は最大の典拠であり、歌道の嗜みは最も基礎的な教養であることを、世阿弥は自著のなかで断言するのだ。世阿弥の論書の各所に歌論を思わせる部分があるのはなぜか、と問いにわたくしは、新しい芸術を1つの<道>として確立させるために歌論を意識したからだ、と答えた。
 では、果たしてなぜそうしたことを行ったのか。和歌という『新古今和歌集』で頂点を極め、完成されてあとは模倣と衰退の道を辿るよりない旧時代の芸術と、能楽という一民間芸能から個性の確立しつつある、一個の芸術としては未だ誕生したばかりの新芸術。後者のように前例のない形態の芸術理念を創作する際、先行する芸術の、場合によっては宗教理論まで援用してゆくのはむしろ当然の帰結だったのであるまいか。一例を挙げるなら、藤原俊成の『古来風躰抄』がある。俊成の時代に於いて和歌は勿論前例のない形態の芸術ではない。だが『古来風躰抄』を著すに際して俊成は、時代風潮と自身の心情の反映からか、天台止観に立脚した歌論を展開している。世阿弥の場合も能の幽玄性を理論化させるために、既にある数多の歌論(勿論それまでに読み得た)のなかから相応しい論を取捨選択、消化した上で理論化の作業を行ったのだろう。だからこそ、かれの論書を読むに際しては、そこに歌論の面影を見るのである。
 新しい芸術様式を完成させる目的で理論を構築するために、既有の歌論を意識し、なおかつ能の台本に多くの和歌を引いて劇性の密度を高めるのに成功したぐらい世阿弥は和歌に精通し、深く理解していたにもかかわらず、今日かれが詠んだとされる和歌はただの一首も伝わっていない。これは世阿弥に限ったことではなく、金春氏信(禅竹)や氏安(禅鳳)にしても同じではあるまいか。和歌──否、「歌道」と称すべきであろうか──を深く理解していさえすれば一首を詠める、というのではない。もとよりそのようなことがあり得るはずはない。
 が、あの時代に世阿弥が属していたのは足利義満や連歌師・歌人として著名であった摂関二条良基を中心とする文化サロンである。たとえ能楽者が卑賤とは申せ、かれらにその才を愛された世阿弥もそこへ所属し、サロンの常として折々催される連歌や歌会の末席にあったとしても、突飛な発想ではないと思うのだが。先に述べた論書にて「歌道の嗜み」を縷々説くのも、こうした席の経験が基になっているのかもしれない。それはともかくとして、そうした場で、世阿弥は連歌を、或いは和歌を詠んだであろうか。連歌に関しては肯定できる。二条良基が尊勝院主に宛てた消息文のなかで、世阿弥を指して「連歌に堪能な者」と称しているからだ。
 それでは和歌に関しては? 前にも触れたように、かれの詠んだ歌は今日に伝わらない。のみならず、連歌の如く第三者によってその存在を報告されることもない。文芸に携わる者の営みが時間の波によって完全消滅することは、古典時代に於いてはまず考えられないことだ。なんらかの形でその消息は伝わるものなのだ。どのような形式であれ報告されていない、ということは単純に、それが為されなかったことの証し、と思うていいのではないか。サロンに於いて和歌を詠まなかった、或いは詠んでも言葉並べの域を出なかった世阿弥は、しかし和歌の本質を、和歌が内包する人間の情念を、あの時代にあっては誰よりも鋭く、しかもはっきりと捉えていた人物である。かれはサロンにあって自分の道を、それまで以上により良く見えてきたに違いない。そうして自分の役割を認識したに相違ない。それゆえに『花伝』を始めとする論書や「井筒」などの台本の筆を執るにあたって、教養の基幹としての和歌を意識し、援用したのであろう。
 世阿弥は遂に歌人とはなり得なかった。しかしサロンで培われた教養が、能の完成に果たした役割は大きい。否、それなくして能の完成はなかっただろう。能は引き歌という手法を採ることで和歌が内包する情念を再構成して物語化し、より深い叙情性を讃えた詩へと進化した。世阿弥は詩(和歌)によって劇(能)を創造し、劇によって詩を復活させたのである。<詩の復活>──その典型を、わたくしは「高砂」と「花筺」に見る。
 後年、世阿弥芸術に耽溺した歌人、吉井勇は「世阿弥元清」てふ詞書を添えた一首を詠んだ、──
 芸道の深さに思ひ入るときや世阿弥の息はいまも身近に
    
(『玄冬』「先達讃歌」 『吉井勇歌集』P201 岩波文庫)◆


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