第2308日目 〈歌の独立:未刊の古典エッセイ集『さよこふ』序文〉 [日々の思い・独り言]

 『古今和歌集』を嚆矢とする勅撰和歌集が四季と恋を二大部立として、その周囲に賀や離別、神祀、釈教を拝するのに対し、平安朝以後の和歌集の決定的モデルケースとなった『万葉集』は雑と相聞、挽歌の3つにすべての和歌は分類される。相聞と挽歌はそれぞれ、続く古典時代と近代以後には恋、哀傷と離別と発展していった。こうした点から、『万葉集』に於ける相聞と挽歌が如何なる性格を持つか、概ね想像できよう。それでは残る雑とはなにか。思うに、雑とは相聞と挽歌の源であり、それらが独立した部立になる前の、和歌の分類の総称であった。
 池田彌三郎は師折口信夫と共著で著した『国文学』のなかで、「日本の宮廷において「正」なる歌儛に対して、在来の日本における伝承歌儛の、由緒正しきものを「雑」と冠して名としたのではなかったか」(P98)という。『万葉集』に於ける雑がどうして「雑」と称されるようになったのか、中国の「正」なる歌儛に対して、日本は自国の歌儛を「雑」と称すようになったのだ、という池田彌三郎の指摘の背景には、その学問の根本に芸能から文学が発生した、という師承の学があるのを忘れてはならないだろう。
 折口信夫は「万葉人の生活」という論文(新全集第6巻)のなかで、雑歌を『万葉集』でいう「歌儛所」、即ち雅楽寮附属の「大歌所」と称すべき部署の掌っている大歌を、その起源と考えている。更にいえば、「雅楽全盛の時代に大歌の勢力の失せなかったのは、日本の神を対象とした祭儀に用ゐた為である。神事に用ゐる音楽としては、神の感情に通じやすい、と考えた古来の音楽或は新曲でも日本語を以て作り、固有の舞いぶりを伴うたのでなくてはならなかったのである」(P35)と折口は考えを進めている。
 中国渡来の奉神楽である雅楽に対し、日本古来の言霊を内包する大和言葉で神に奉ったのが大歌であり、その大歌は日本の音調を伴うものであるから、「神の感情」に訴えかけるなんらかの力を保有することになるのだ。こうした神事の席では、様々な内容の歌が誦された、と思われる。しかし、そうした席の性格上、いったい日常的な素材を歌うなどということがあったであろうか。それゆえ、そこで誦された歌は皆、<ハレ(晴)>の歌としての性格を帯びる他なかった、と思われるのである。
 『万葉集』巻一と巻二は勅撰説があるぐらい整っていながら、いずれも巻尾に至って混乱を来している、とは折口と池田の一致した意見であるが、なぜこうしたことが起こっているのだろう、と考えると、巻一に限っていえば雑歌群のなかに相聞歌が幾首か入りこんでいる点に、その答えを見附けることができる(歌番23-23、76-77)。また、巻五の如く雑歌と大部されるなかに挽歌(歌番794-799)と相聞(歌番806-809)があるのも、手掛かりとなろう。
 このような混乱としか思えない現象が、果たしてなぜ起きるのか。結論をいってしまえば、『万葉集』の三大部立である相聞と挽歌はその発生の最初は雑歌に含まれていたのである。池田の言を借りるなら、そのときはいずれの部立も「未分化の状態」(前掲書P90)だったのであり、裏返していえば、雑歌と相聞がはっきりと別々に配列されている巻八と巻十は、それぞれ完成された状態にある巻だ、といえよう。両巻が『万葉集』のなかで、「家持集」とも呼ぶべき最後の4巻を除けば最も成立が新しいとされる(前掲書P92,或いは折口『日本文学史ノートⅡ』所収「三 万葉集巻八・十」など)所以である。
 次に相聞であるが、これは今日では一般的に恋愛関係にある、或いはその前後の段階にある一組の男女の間で交わされる歌を指すが、そもそもはこうしたのに留まらず、広く人と人との歌のやり取りをいった。<恋歌>としてよりも、<贈答歌>の性質を多分に孕んでいる。相聞は元来、『文選』等で誰かが誰かの許を訪うたり、誰かが誰かの許へ文を送ることをいうた語であり、これと同じ用い方をしたものは『万葉集』のなかにもある(巻四、歌番727詞書)。われらが今日捉えるような相聞の歌は恋情を詠った歌である。が、元の意味に照らせば『古今集』に収まる在原業平とその母伊都内親王の歌(歌番900-901)もやはり、相聞と呼んで然るべきものだったのである。
 折口は「相聞歌」という論文(新全集第6巻)のなかで、「こひ歌といふことは、相手の魂をひきつけること、たま迎への歌といふこと」(P140)だ、という。<こひ(恋)歌>とは<魂こひ(乞)歌>であるわけだ。生きとし生けるものたちの魂の問答であるのみならず、生者と死者の交感すらも「相聞」なのである。
 相聞が時代を経るに従って恋歌のみを示すような風潮になっていったのは、「相聞」と部立されるもののなかに、いわゆる恋歌の占める割合が多かったためであろう。また、池田は前掲書のなかで「雑歌の部立ての中に、相聞歌に属さしめるべきものが混在している形については……巻八の、明確に雑歌と相聞歌とを対立させている雑歌の中にもそれが見られる」(P93)と書いているが、それは師である折口信夫もその主著『古代研究』国文学篇に収められる「万葉集研究」にて述べている(新全集第1巻 P351)。
 『万葉集』巻八、十は共に異なった季節(Different Seasons)の雑歌と相聞を配していて、後の『古今集』を思わせる編集が施されている。両巻に於ける相聞は記述の如く、四季の景物に仮託して自分の想いを詠った歌だ。そうして後代になるにつれ恋歌へと特化してゆくことになる。
 折口は相聞とは元々一種の<かけあひ>であるから、「宮廷・豪家の宴遊の崩れなる肆宴には、旧来の習慣として、男女方人を分けての唱和があった」のをその起源とし、「其が更に宴座のうたげとなると、舞姫其他の列座との当座応酬のかけあひとなる」(新全集第1巻 P352)と説明する。文学の発生が民俗学に於ける芸能に源を持つ、という折口学の視座に立てば、これが事実に最も近いのかもしれない。
 ここから発展して、相聞のなかに含まれる贈答の様々なものが欠落してゆく──そうして最後に残った異性間の恋愛の唱和が、部立としての相聞の代名詞となり、後に恋歌という概念を獲得するのだ。それは同時に、和歌に於ける最大級の主題の誕生をも意味しよう。相聞の最も純化された形が恋歌、と考えてまず異見はなかろう。
 先に生者と死者の交感すらも相聞である、と述べたが、相聞と挽歌は表裏一体をなすものである。死者への悼歌である挽歌にこめられた情が極まれば相聞となるのだ。しかし、挽歌を死者への哀悼の意を表す歌、哀傷歌の意となるのは、『万葉集』の時代よりずっと降った時代のことである。そも挽歌とは折口のいうらく、「一旦游離した魂を取りかへして、身にくつつける、魂しづめの役をするもの」(「歌の発生及びその万葉集における展開」新全集第6巻 P133)であった。これは古代の日本人が生と死の意識をはっきりと区分して持っていなかった頃の習俗、というてよかろう。
 『万葉集』に収められる挽歌は2種類あった。1つはいま述べた元の性質を有した挽歌、もう1つは哀傷としての挽歌である。『日本文学啓蒙』所収の「歌謡を中心とした王朝の文学」で折口は、挽歌とは「魂を鎮める為に謡はれたものである。それ故に魂の気に入りさうなことを謡ふ……死人の魂を鎮めるといふ点に、挽歌の意味があるのであつて、別に悲しんでゐるのではない」と記す(旧全集第12巻P292)。これは日本古来からの特殊な信仰の1つである言霊信仰、また、ラフカディオ・ハーンやジョージ・フレイザーたちの報告からも明らかな、(極東の島国たるここも例外でなく)世界中に散らばる御霊信仰を背景としているのに注意せねばならぬだろう。
 本来、挽歌は歌枕と同様、その地の神、或いは聖霊の歓喜に触れるのを恐れたがための、鎮魂の手段であった。これは『万葉集』巻一にある柿本人麻呂と高市古人(黒人とも)の、荒廃した近江大津宮を詠った長歌・挽歌(歌番29-33)に明らかである。その地とそこに留まる御霊を歌のなかに詠みこむことで、荒ぶる魂を慰撫し、鎮めるのだ。文学が芸能から誕生した一方で、信仰はその精神を支える重要なものであった、といえようか。
 そうした性質を持つ挽歌がいつしか字義通り、死者の棺を挽きながら嘆き、悲しむ、実地に誦する哀悼の歌、という意味へと変わっていった。これはもう『古今集』以下の<哀傷歌>の部立にほぼ等しい。それがためか、『万葉集』に於ける挽歌には長歌が多い。形式的には短歌よりも長歌の方が唄いやすく、また、死者への想いは増幅され、唄う側としても感傷の度合いは非常に高くなる。巻十三の挽歌24首はその好例といえよう。挽歌とはクラシック音楽にたとえればミサ曲やレクイエムに匹敵する役割を担う歌のジャンルだ。と共に、雑歌とは異なり、また相聞以上に実用的な要素を持っているのが挽歌である、といえよう。
 結論に入る。まず始めに雑歌があった。それはまだ細かい部立てが為されていなかったことの呼称である。その時代にはまだ日本人に部立という概念が生まれておらず、当初より細分化を目指すことはなく、まず綜合の方向を目指していた。相聞にせよ挽歌にせよ、最初は雑歌に含まれていたことからわかるように、第一次の雑歌集として『万葉集』巻一は編まれ、そこから第二次の、雑歌・相聞・挽歌と部立できるだけの下地を持った巻二が編まれたのである。「相聞歌と併立する名目である雑歌の前に、高次元に位置する雑歌が考えられる」(『国文学』P92)と池田がいうのは、こうした現象を背景としているからだ。
 巻一を通読してわかるのは、後々まで雑歌に分けられる歌のすべてが<ハレ>の歌である、ということだ。それはやはり、宮廷詩人たちが天皇・皇族に奉った歌が集められているからだろう。すると自然、詠まれる歌は<ハレ>の性格を帯びざるを得ない。しかし人間の感情は常に<ハレ>の歌、公的性格を擁す歌ばかり詠むことを許さない。時に触れ折に触れ、自分の感情を、日常的素材を、生涯の節目となる事件を詠わずにはいられない。そこから相聞や挽歌が生まれ、<ハレ>の歌で詠まれることのない止むに止まれぬ想いを<ケ(褻)>の歌として詠んだのである。それは当然視されてゆき、独立の力を得るまでに成長し、雑歌から離れ、やがて雑歌・相聞・挽歌の三部立を成すに至ったのである。◆

○参考文献
・折口信夫・池田彌三郎『国文学』 慶應義塾大学通信教育部 昭和52年3月
・折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文学」『折口信夫全集』第12巻 中公文庫 昭和51年4月
・折口信夫「万葉集研究」『折口信夫全集』第1巻 中央公論社 平成7年2月
・折口信夫「万葉人の生活」
     「歌の発生及びその万葉集における展開」
     「相聞歌」いずれも『折口信夫全集』第6巻 中央公論社 平成7年7月
・折口信夫『日本文学史ノートⅡ』 中央公論社 昭和32年12月
・森朝男「万葉集の構成の展開」『岩波講座 日本文学史』第1巻 岩波書店 平成7年12月
・中西進・校注『万葉集』全4巻 講談社文庫 昭和53年8月−昭和58年10月

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