第2309日目 〈近世前期の怪談物語を読む:「牡丹燈籠」〉 [日々の思い・独り言]

 思うに、古典時代に於いて近世程怪談物語がもてはやされた時代もなかったのではないだろうか。上代と中古は専ら現実の怨霊に怯えた時代であるし、中世はわずかに平和な頃もあったけれど殆どすべての時間は戦乱のなかにあって血で血を洗う状況が、長く、大きく支配した時代であった。どれだけ物語の創作がされていようとも超自然綺譚の創作へ耽るには、現実社会のなかに巣喰う怪異のあまりに生々しい時代が続いたのである。
 勿論、怪談とは別の、幻想文学の一方の雄というべき浪漫綺譚は少ないながらも書かれて後代へ継承された。たとえば伝菅原孝標女『浜松中納言物語』や藤原定家『松浦宮物語』など。多くの物語は、当然というべきか、『源氏物語』の系譜に連なるものが圧倒的に多く、『浜松中納言物語』や『松浦宮物語』と生まれた腹を同じうする物語が他にどれだけあって人々の目に触れたのか、寡聞にして知らない。
 近世へ至るとようやく、大半が文人の筆遊びであったとは申せ、怪談物語が様々に書かれるようになった。時代性が大きく関与しているのは疑うべくもない。時代風潮が創作へ反映することが間々あるのは、今日を生きるわれらもリアルタイムで創作・出版される小説類を瞥見すれば瞭然の事実である。とまれ、近世程に怪談が人々へ享受された時代は、他に見られない。百花繚乱とも称すべきこの様相に匹敵し得るのは、そうね、遠く海外にまで目をやって19世紀末の英国が思い浮かぶぐらいか。
 平成元(1989)年、岩波文庫から『江戸怪談集』全3巻が出版された。貧書生のわたくしは店頭に並ぶと程同時に購入して読み耽った覚えがあるが、本書には近世期に出版された11の怪談集より、それぞれ数編から数十編を抜粋し、簡単な脚注を付して古典に読み慣れていない人でも苦労なく咀嚼できるようになっている。
 全3巻を通読した思うたのだけれど、民間に流布していた怪談の多くがプロットこそ同工異曲であってもヴァリエーションは様々であり、短いものも長いものも、非日常的世界に読者を遊離させ、酔わせる魔力を備えている。これはどういうことだろう? 日常から離れて、読者の架空のこわい話・気味の悪い話を堪能してもらうこと──即ち、怪談の醍醐味がいずれにもあり、読者は<読み、想像する>ことによってそれを提供されるのに他ならない。
 近世期の怪談の大きな特色として中国産の怪談を粉本としていることが挙げられる。これはさして珍しいケースではなく日本文学は古から中国文学を源泉とし、典拠とし、出典としてきた。『日本書紀』や『源氏物語』、『枕草子』を繙けばその影響が奈辺にあるか、了解いただけよう。
 近世怪談の場合、その拠り所となって数多のネタを提供してきた主たるものは『剪燈新話』であった。『剪燈新話』は元王朝末期から明王朝初期にかけて活動した文人、瞿佑が著した全47巻から成る文言小説集であるが、現在まで残存するの内4巻のみである。中国文人の多くと同様、瞿佑も科挙に合格した役人であったが、その人生は不遇であった。中国小説は概して作者の晩年に成立すること専らなのだが、『剪燈新話』は著者壮年期に成った、といわれる。
 『剪燈新話』は中国のみならず朝鮮やヴェトナム、そうして日本などの東アジア文明圏、言い換えれば漢字文明圏の国々の文学に大きな影響を与えた。2つばかり例を挙げれば朝鮮では15世紀末に『金鰲新話』が、ヴェトナムでは16世紀中葉に『伝奇漫録』が出版される、という具合だ。
 日本に『剪燈新話』が輸入されたのは室町時代中期と推測されるが、定かではない。朝鮮で刊行された『剪燈新話句解』の和刻本が近世初期に出されてから広く読まれるようになり、多くの文人に物語の着想を与えたのである。
 寛文6(1666)年、浅井了意著『伽婢子』が開板された。大南北四世鶴屋南北の『東海道四谷怪談』や河竹黙阿弥の『新皿屋敷月雨暈』と並ぶ、日本3大怪談の1つである「牡丹燈籠」はこの怪談集のなかの同名小説を原作として噺家三遊亭円朝が高座の演目として近世末期に披露したものだが、この「牡丹灯籠」の典拠が前述の『剪燈新話』の1篇「牡丹燈記」である。
 瞿佑の「牡丹燈記」と了意の「牡丹灯籠」、円朝の『牡丹灯籠』を読み較べていちばん違いがはっきりするのは、なんというても後半から結末にかけての展開であろう。以下に列記する。
 瞿佑の「牡丹燈記」では喬という主人公が、お露に相当する麗卿の眠る寺の前を通りかかったばかりに見初められ、棺のなかに連れこまれて(引きずりこまれて、ともいう)死んだ後(!)、「雲陰の昼、月黒き宵」に2人の亡霊が双頭の牡丹燈籠を持った女中を伴い歩き、その様を見た人は重い病を患う。それをなんとかしようと村人たちが道教の法師の許へ相談に行くと、かれは四明山の鉄冠道人に頼むと良い、と教える。乞われて山を降りた道人は符吏(「道教で、護符の命令で使役に使われるもの」と中国古典文学大系〔平凡社〕の訳注にある。P46)を使って、喬と麗卿、女中を捕らえ、自供書を書かせる。道人は判決文を認め、罪によって罰に処し、かれらを地獄へ落とす。道人は山へ帰るが、かれのことを村人たちに教えた法師は啞にされていた──という筋になっている。
 これに対して、了意の「牡丹燈籠」はどうか。荻原新之丞と女の亡霊が、女童に牡丹花の燈籠を持たせ、「雨降り空曇る夜」にかれらと行き逢う者は皆重病となる、とここまでは原話と同じだが、その亡霊が現れないようにする手段は、甚だ日本風に改作されている。短いので終いの文章を引用しよう、──
 「荻原が一族、これを嘆きて、一千部の法華経を読み、一日頓写の経を墓に納めて弔ひしかば、重ねて現はれ出でずと也」(『江戸怪談集・中』P242 岩波文庫)
 「一日頓写の経」とは、本文庫の脚注に拠れば、「大勢集まって一部の経を一日に写し終えること。法華経を写すことが多い」(同)とある。公卿の日記、たとえば藤原道長『御堂関白記』や九条兼実『玉葉』、藤原定家『明月記』など繙いてみると、病を患ったり閑居の折には、法華経を写していることがたしかに多い。「一日頓写の経」とは少し違うが、日本では中古の昔から有事の際には法華経を書写して災厄払いを祈願している。『源氏物語』御法巻では、紫の上が死を予感して出家を願うなかで法華経千部を書写、二条院にて法華八講を執行した。浅井了以が「牡丹燈籠」を書くにあたって斯様な改作を行ったことで、日本人の生活にどれだけ法華経が浸透し、密な関わりを持っていたか、垣間見えるように思える。
 前の2作と大きく異なるのが三遊亭円朝の『牡丹灯籠』だ。むしろわれらが知る「牡丹灯籠」のお話は円朝のものがベースとなっているので、お馴染みの展開と結末であろうと思うが……。こちらでは萩原新三郞はお露の亡霊との度重なる情交によって次第に精気を失いゆき、やがて死んでしまう。と、ここまでは前2者とさして変わるところがない。が、これに続く亡霊騒動は新三郞の隣人が言いふらしたデマなのである。つまり、亡霊の連れ合う姿を見た者が3日と経たずに死ぬ、というのは、物語のなかの現実ではなく、物語のなかの虚構なのだ。
 その後は、実に全体の1/3を費やして萩原の下男と件の隣人を中心とした仇討ちと姦通の挿話が語られてゆく。われらの知る「牡丹燈籠」は円朝の『牡丹灯籠』から枝葉末節を切り捨てたものであるが、それでも、お露のあの下駄の音──静かな夜の江戸の町に響く「カラン、コロン」という駒下駄の音は怖い。これ程までに怖い登場の仕方をする亡霊は、日本は勿論、洋の東西を見廻してもちょっと匹敵する存在が見当たらない。この円朝の怪談それ自体はさして怖いものでもないのだが、あの駒下駄の音だけは本当に恐ろしい。『牡丹灯籠』はこの下駄の音だけでも永く人の記憶にあり続けるのだろう。
 浅井了意記す『伽婢子』の特徴は2つある。第一に、全68篇の大半が中国文学、殊『剪燈新話』に典拠を持つことだ。第二に、『伽婢子』の開板まではどちらかというと庶民の慰みであった怪談が、了意の出現によって一個の文学としての生命を持つに至った、ということが挙げられる。それに気附いた作家は多かれ少なかれいたことだろう。しかし、了意の衣鉢を継ぎ、更に完成度の高い、それでいて洗練された、普遍の生命力を保つぐらいの怪談を創作する者は、そうすぐには現れなかった──その登場には了意の時代から約一世紀を待たなくてはならなかったのだ。それだけの時間を隔ててようやく上方に1人の作家が登場する。かれによって著された怪談物語は近代文学の出現を予見したような、過去のしがらみから脱したまったく新しい文学の衣を纏っていた。
 了意の提示した文学としての怪談を、もはや芸術と称すよりない物語に仕立てあげた人こそ、上田秋成であった。──が、秋成のこと、『雨月物語』のことは、別に語っているし、今後も語ることがあるだろう。そこで本稿では最後に、一個の作品としての完成度や文学性こそ秋成のそれに劣るけれども、了意と秋成を分かつ約一世紀の空白期を埋める意味も兼ねて、都賀庭鐘の作品について書いておく。
 都賀庭鐘の『英草子』と『繁夜話』、『莠句冊』は<読本>という新しい小説のジャンルを確立させた、記念碑的作品である。井原西鶴『好色一代男』に端を発す浮世草子が断末魔の悲鳴をあげ、その時代の終焉を迎えつつあった頃に登場した庭鐘の小説は前後120年に渡る読本時代の幕開けを担ったものであるが、正直に告白すれば、了意と秋成の間に庭鐘を置くのは妥当とは言い難い。ここでかれを取り挙げたのはあくまで空白を埋めるつなぎとしてのものであって、かれの作品に際立った文学性や特質を見出してのことではない。同時に本稿の本旨に則していえば、庭鐘の残した上記3作いずれも怪談ではないがゆえに、了意と秋成の間に置くのは妥当とは言い難い。一般に<伝奇小説>と称される庭鐘の小説は、読本の発展史のなかでのみ秋成の小説と関係附けていろいろと論じられており、内容から両者の関係について述べたものがどれだけあるのか寡聞にして知らない。わたくし自身、『英草子』や『繁夜話』を寝食を忘れて没頭する程に入れこんだわけではないので、これ以上踏みこむことは避けたい。
 しかし、一読者の印象としては、『英草子』と『繁夜話』の内容にも『雨月物語』や『春雨物語』に受け継がれて結実したものはあるように思うのだ。漠然とそれをいうならば、主題の継承・発展は勿論だがそれ以上に、自分の思いに即した原話の採取法や素材の料理の仕方、「語り」の技法などテクニック面で秋成は庭鐘の作品に学び、自家薬籠中のものとして筆を執った、とわたくしは考えるのだ。
 浅井了意についても都賀庭鐘についてもそうだが、近世の小説史を辿る上ではけっして無視できない大きな存在である。にもかかわらず、同じ小説家として見た場合、その人物像や作品研究は西鶴や秋成、或いは馬琴などに大きく後れを取っているといわざるを得ない。わたくしは象牙の塔に籠もることを希望していながら果たさず文学研究の現場からも遠く離れた場所にいて外側から見ている身分に過ぎないけれども、了意や庭鐘を巡る環境はそう大きく変化はしてないのでないか。すべての人物とは流石にいわぬが、斯様に文学史へ名前が出る人物についてだけでも幾許かの研究が進み、等閑視の状況に変化が生じることを望みたい。
 それはさておいても……この分ではいつの日か、生あるうちに書かねばならないかな、この時代の怪談物語集の通史など。◆

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