第2310日目 〈上田秋成『雨月物語』、『春雨物語』を読む。〉 [日々の思い・独り言]

 佐藤春夫をして「死後の多幸」といわしめた、近代になっての上田秋成復活劇以降、幾百人が秋成を読み、幾千・幾万の秋成論が書かれたのか。そのすべてを知る術はないが、ともかくいえるのは、秋成には、人間にしても作品にしても、人を惹きつけて離さない魔力のようなものがある。英国ではシェイクスピア論に次いでブロンテ姉妹についての論文が書かれているそうだが、これはそのまま、『源氏物語』についての論文に次いで上田秋成論が書かれている日本の現状に置き換えられよう。ふと思うたのだが、ブロンテ姉妹、殊エミリ・ジェーンと上田秋成には、共通点が多く見受けられる。幾つか例を挙げてみると、伝記の不明瞭さと性格の類似、実母の記憶の欠落、などがあるけれども、そうしたなかでもっとも大きなものはかれらが後世へ遺した文学の孤高性である。『嵐が丘』にしろ、『雨月物語』や『春雨物語』にしろ、同時代は勿論、その登場以前も以後も、それらに追随し、また、大きく凌駕するものは出てこないことが、甚だ単純ながらも1つの証しとなるのではないだろうか。
 『源氏物語』と並び称される『雨月物語』の良さとは、果たしてなんであろうか。様々な人が様々にいうているが、わたくしはなんというても描写の優れた点にある、と思うておる。自然の美と幽を描き、人間の立ち居振る舞いと心理を描き、超自然の愛と憎を描くその筆致は、近世小説の枠を大きくはみ出している。もはやそれは単なる<創作>ではなく、時代を超越した一個の芸術というてよい。まさしく秋成の天才のみが生み出し得た、稀有の作品というてよいだろう。すべての描写が1つとなって、個々の物語が孕む緊張感、緊迫感を生み出し、それは物語が語られている間は途切れることがない。どんな小説でもそうだが、一度途切れた緊張感は、如何なる努力を以てしても二度と取り戻せない。秋成はそれを知っていたのだろうか、『雨月物語』の世界は、常に緊張感を内包して維持される点でも近世小説のうちで一頭地を抜いているのである。それが読者を物語のなかへ引きずりこみ、最後の一行まで読ませてしまう馬力と化しているわけだけれど、結果的にはそれが『雨月物語』を一流の、かつ異彩を放つ文学へ昇華させているのだろう。
 怪奇描写の美しさ、上品さ、そうして凄惨さは、古今東西の文学でも第一級のものである。秋成と較べたら──ここからしばらくはいささか贔屓の引き倒しになることをお許し願いたい──ジョゼフ・シェリダン・レ=ファニュも、アーサー・マッケンも、モンタグ・ロード・ジェイムスも、小泉八雲も、まだまだ青い。H.P.ラヴクラフトに至っては論外である。子供の作文しかない。これまでに何人、怪異を詩的散文で描き得た者がいたであろう。例えいたとしても、秋成と比較しなければ、のお話である。詭辯を弄してでも秋成を第一等とするつもりは勿論まったくないが、かれに匹敵する作家が事実いないのだから仕方ない。『雨月物語』で特に怪異描写に優れているのは、「吉備津の釜」であろう。正太郎が故郷に捨てた妻、磯良の亡霊と草屋で再開してから後、『雨月物語』最高の怪異は迫力を増してゆき、終には思わずぞくり、とさせられるようなかれの最期にわれらは遭遇することになる。磯良の亡霊が夫の命を奪う瞬間こそ描かれないが、その凄まじかったであろうこと、家のなかに残された夥しい量の血糊と、軒端にぶら下がった髻から、容易に推察できよう。まこと、「浅ましくもおそろしさは筆につくすべうもあらずなん」(改訂版『雨月物語』鵜月洋・訳注 P269-70 角川文庫)なのである。
 「怪異を描く」とは秋成にとって、欲望に憑かれた人間の浅ましさ、卑しさを描くことでもあった。が、それはいろいろと紆余曲折を経て、『春雨物語』に収められてゆく諸編を書く頃になると、人間のそうした部分を描くには怪異を以てするのではなく、高潔な人間を対極に置いて描くのが良い、との考えに変化したようである。事実、『雨月物語』から約40年後に成った『春雨物語』は前作の人間と超自然の物語から、人間と人間の織り成すドラマへと変貌した。それは秋成の人生観、人間観が変化し、定着したためであろう。だからこそ、宮木や燓噲といった自分の信ずるままに生きた人物に、読者は、正太郎や豊夫たちよりも更に深い印象を覚え、共鳴するのである。
 『春雨物語』はもはや物語や文学という言葉では括れない、これまでの文学が到達したことのないような深みと奥行きを備えた豊穣さを誇る。これをなんと称すべきか。『雨月物語』を芸術と呼ぶならば、『春雨物語』はどう呼べばいいだろうか。わたくしにはわからない。が、これだけはいえる;『源氏物語』と『雨月物語』を古典時代に於ける物語の最高峰とするならば、『春雨物語』は日本文化の奇蹟である、と。
 そうした『春雨物語』ではあるが、そのなかにも怪異なるものを描いた扱った短編がある。但し、『雨月物語』のように緊張感が漲ったものではなく、かなり様相を異にした怪異なるものであるが。では次に、様相を異にした怪異と人間を対峙させた「目ひとつの神」について、書き綴ってみたい。
 『春雨物語』富岡本「目ひとつの神」は、相模国に住む風流を愛する若者が和歌を学びたい一心から故郷を出奔して京の都へ向かう途中の森で夜明かしする際遭遇した異類に諭されて再び故郷へ帰ってゆく、そのときのことを後年目ひとつの神が日課としている手習いに認めた、という粗筋である。明日はいよいよ都という晩、現在の滋賀県は安土付近にある老曾(老蘇)の森で若者は陽気な異類の一行に出会い、その長である目ひとつの神から貴族に付いて和歌を学ぶことの無意味さを説かれる。目ひとつの神の曰く、──
 「汝は都に出でて物学ばんとや。事おくれたり。四五百年前にこそ、師といふ人はありたれ。みだれたる世には、文よみ物知る事行はれず。(中略)すべて芸技は、よき人のいとまに玩ぶ事にて、つたへありとは云はず。上手とわろもののけぢめは必ずありて,親さかしき子は習ひ得ず。まいて文書き歌よむ事の、己が心より思ひ得たらんに、いかで教へのままならんや。始には師とつかふる、其道のたづき也。たどり行くには、いかで我がさす枝折のほかに習ひやあらん。あづま人は心たけく夷心して、直きは愚に、さかしげなるは佞(ねぢ)けまがりて、たのもしからずといへども、国にかへりて、隠れたらんよき師もとめて、心とせよ。よく思ひえて社(こそ)おのがわざなれ」(『春雨物語』井上泰至・訳注 P182-83 角川文庫)
 以上は富岡本と底本とした文章である。一方でこの箇所、『春雨物語』の最終稿本と目されている文化五年本では、──
 「若き者よ、都に物学ばんは、今より五百年のむかし也、和歌にをしへありといつはり、鞠のみたれさへ法ありとて、つたふるに幣ゐやゐやしくもとむる世なり、己歌よまんとするならは、心におもふまゝを囀りて遊へ、文こそいにしへは伝へあれ、とかく法をつたへありとも、必よく書るは、今はぬす人に道きられ、となりの国のぬしか掠めとりて、裸なゝ代のいつはり也」(『上田秋成全集』第七巻 P176 中央公論社 「ゐやゐやしく」2語目の「ゐや」は2字続きの踊り字であるが変換できないため斯く対処した)
──となる。「今はぬす人に道きられ」とは穏やかでない表現で、直接意味するところは定かでないが、おそらくこれは、秋成が自分の生きる時代に顕著であった、国学者たちによる堂上家の(「古今伝授」に代表される)秘伝伝授批判を指しているのであろう。
 秋成の堂上歌学批判は、目ひとつの神の口を通して語られる。和歌に師なく、己の情へそれを表現するに相応しい詞を与え、つれづれの慰みとすればそれでいいのだ──これが秋成の青年期より抱き続けてきた思いの結論であった。こうした一切自由の境地を求めた秋成の態度が、作品の純粋性を高め、孤高の文学を生み出したのではないだろうか。それは意識するにせよ、しないにせよ、同時代の、過去の、未来の文学への挑戦であった──秋成の著作を繙く度毎にわたくしはそう思うことである。
 「目ひとつの神」に話を戻す。この一篇のそこかしこに作者である秋成の姿が投影されている。和歌を学ぼうと故郷に親を残して上洛する若者に、文芸にうつつを抜かして家業を再興しようとしなかった秋成の姿が見られるし、若者に相伝の家道の無意味さを説く目ひとつの神に、或いは、汚げな字を書き連ねて悦に入っている目ひとつの神にも、秋成その人の姿を認めるのは、さして難しいことではない。秋成はこの一篇を書きながら、心のなかで、苦笑していたのではないか。と勘繰ってしまうぐらい、「目ひとつの神」という短編には自虐的笑い──自己戯画の要素が多く含まれている。世人には偏屈な老人、と思われていたらしい秋成であるが、実はユーモアに長けた性格の御仁であったのかもしれない。『雨月物語』ではついぞ見られなかった人間味に満ちた陽気な怪異のものたちを描く余裕が、『春雨物語』を執筆する晩年にはあった。言い換えるならば、その余裕こそが秋成に自信を与え、奇蹟と称すべき『春雨物語』を生み出した要因なのかもしれない。
 『雨月物語』の出版(安永5/1776年)から3年後の安永8(1779)年、秋成は『ぬば玉の巻』という『源氏物語』論に擬えた物語論を執筆した。秋成が己の物語感を正面切って開陳した一書であるから、少し長くなるが「物語とは何物ぞ」というかれの主張を聞いてみよう。曰く、──
 「物がたりは何物ぞ。おほかたは妹夫の中ごとをもはらとして、守るへき操のためしをあげ、閫(しきみ)の外だに見ず。窓の内にまぎるゝかたなき心をなぐさめ、又は人のさかえおとろへをおどろかし、或は得がたき宝を得ましくするしれものがうへ、あるは異の国に物もとめあるくあかず心、或はまゝしき親の心をいましむるなど、かれや是をほめしれるも、たゞ時のいきほひの推べからぬをおそり、又おほやけの聞しめしをはゞかりつゝ、いかにもいかにも打かすめ、あだあだしくつくりなせるは、さえある人のしわざにて、よむ人おもひかねては、ふかきに過、さかしらにふけりて、とざまかうざまにもてつけていふものぞ」(『上田秋成全集』第五巻 P70 中央公論社 「いかにもいかにも」、「あだあだしく」2語目の「いかにも」と「あだ」は2字続きの踊り字であるが変換できないため斯く対処した)
 もとより明確に変わるのは不可能であるが、秋成の小説は『ぬば玉の巻』以後、わずかながらも変容してゆく。小説に対する気負いがなくなった、とでもいえばいいだろうか。初期の浮世草子2作や『雨月物語』に見られた生真面目さ、少し言葉を悪くすれば神経質っぽさが姿を消して、『春雨物語』諸編、『背振翁伝』や『鴛央行』などの小品になると、淡々とした、おおらかな筆で描かれた、余白の美しさが際立つ作品へと結実しているように読めるのである。
 そこに秋成の、かつて3作の小説を書き、「物がたりは何物ぞ」という思索の旅の果てに、一個の指標として『ぬば玉の巻』と題する物語論を執筆したことから得た回答を、更に敷衍させ、晩年に至って遂に著し得た前掲の諸作に自己の文学の総決算とする自負を見出すのは、あながち無理とはいえないように感じられる。◆

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