第2321日目 〈さぁ、わたくしも「新潮文庫、夏の100冊」を選んでみよう!〉 [日々の思い・独り言]

 いよいよ夏到来(と思われる)。この世になぜこうも人間を醜くさせる季節が存在するのか、もはや理解する気も毛頭ないが、夏なくして四季の彩りと情趣に富んだわが祖国の有り様は崩れてしまうから、いまはこの点について個人の意見をここに開陳して沙汰するのはやめておこう。
 早々に逸脱しかけた話題を本道に戻す。新刊書店へ行くと各社が力を入れてセレクトした<文庫の100冊>が平台を占拠している。高校時代からその手のキャンペーンの益に与ること極めてわずかであったが、中綴じの目録にはずいぶんとお世話になり、かつ楽しませてもらった。向こう100年生きたとしても、まず手にすることはあるまい書目を知って「ほう」と溜め息し、知る書目を見出しては「むへっ」と喜んでみたりしてね。10数行のあらすじを読むのもじゅうぶん想像力を刺激されて面白いのだが、わたくしがこの中綴じ目録でいちばん喜びを感じたのは、作家たちのエッセイであったり編集子の著すコラムであったりランキングであったりなのだった(ふしぎとプレゼントには興味が湧かなかったぁ)。
 年を経るに従って<夏の100冊>のリストは大きく変貌した。殊、日本文学に於いて。それも当たり前のことだ。どの業界にも新陳代謝は必要である。永遠不変のリストなどあり得ない。100冊の書目すべてが時間の淘汰に抗っていつの時代でもエヴァーグリーンであり得るなど、不可能だ。それは狂気の沙汰、ともいう。なにが消えてなにが残ったか、詳しく検証する気はわたくしにない。わたくしが本稿で扱いたい話題は、そうしたことでなく、つまり、──
 自分流の<(夏の)100冊の文庫>リストを作ってみたいのだ。各社のそれに対抗しての作業であるから当然出版社別となる。取り敢えずはいちばんメジャーで、自分も高校時代からお世話になって親しんでいる新潮文庫から。ここなら100冊はともかく、8割程は半日あれば候補作を選べる自信がある。むろん、そのあとの作業は延々と続いて悩み抜き、苦しみ、悲しみ、嘆き、キレることもあるだろうが、それを想定範囲内といわずにどうするか。呵々。
 先の心配はともかく、その作業へ取り組むにあたってはなにをさておき、ルールを定めなくてはならない。さして大層なものではないが、ルールなくしてなんのゲームであろう。ルールは全部で3つ、──
 1:一作家一作品を旨とする。
 2:選定作品は2016年春現在で刊行目録に載る書目のみとする。
 3:シリーズ作品は一作品と数えて、かつ完結作のみとする。
──以上。
 「1」と「2」はともかくとして、「3」はどんな理由から? とあなたは訊くだろう。むろん、目論見あってのことである。わたくしはこの我流<新潮文庫の100冊>(もはや「夏」って単語が欠落しているというね)にスティーヴン・キング《ダークタワー》シリーズと塩野七生《ローマ人の物語》を選ぶつもりでいるのだ。ご存知のように双方共に関数が多い。前者は全7部16巻、後者は全15巻43冊──律儀にカウントしたら100冊の半分以上を占めてしまうことが判明している以上、ルール「3」を設定して処置するより他ないではないか。
 まぁ、それは冗談として、斯く定めたのは今年の「新潮文庫、夏の100冊」に宮部みゆき『ソロモンの偽証』があって、にもかかわらずそこに選ばれたのは発端となる第一部上下2巻のみであったからだ。あちらは販売ありき、数字ありきのリスト。こちらは販促とは無縁の自分勝手なリスト。比較すること自体、間違っているね。たしかに。
 とはいえ、なのだ。分冊であれシリーズであれ、1つの作品をその一部だけ挙げてオススメというのは気が引けるし、なによりも物語への最大級の冒瀆なのでないのかな。一部だけ切り売りされた作品の最初の巻を手にしてそのまま最後の巻、最後の一行まで読むような読者が果たしてどれだけいるだろう。新刊書店や古書店、新古書店で続きの巻を買う、もしくは図書館で続きを借りる人がどれだけいるか、という話だ。ならばいっそのこと、わたくしの作るリストでは全部まとめて「1作品」として紹介する方が、却って読者のためであり、作品のためでもあるんじゃぁないのかな。
 閑話休題。小休止だ。黒ビールをもう1杯。……5分経過、ぷふぁあっ! ん、げっぷ出た……では、気を取り直して再び筆を執り、本稿結びの一語へ向かおう。
 実はわたくしなりの<新潮文庫の100冊>、書目の選定作業はもう殆ど済んでおり、そのうちの半分ぐらいは概ね決定というてよい。日本人作家については前述の塩野七生以外は夏目漱石、内田百閒に始まり太宰治、三島由紀夫(やっぱりこの組み合わせは面白いですなぁ)を経て米澤穂信、有川浩に至る。外国人作家はスティーヴン・キングの他はルソー、シェイクスピアから始まりヘルマン・ヘッセ、トーマス・マンを経てジェフリー・アーチャー、サイモン・シンまで。どんな作品が既にリストに挙がっているか、教えてあげたいけれど教えてあげられないよ、じゃーん。どれほどの脅迫も色仕掛けもわたくしには通用しないのだ。巨額の現金による買収は可能だけれど(おい)。
 小説、戯曲、詩、エッセイ、思想、ノンフィクション。ジャンル不問で100冊を選ぶのは非常に楽しい。ああでもない、こうでもない、と頭を悩ませながら選定作業を進めてゆくのは、とっても愉しい。そう、至極悦ばしい作業なのだ、書目を決めるだけならね。が、事はそう単純なお話ではない。わたくしはこのリストに200-400字のコメントを付けることも企んでいるからだ。いま脳内会議が緊急収集されて議論の応酬を深めているが、なに、読者諸兄がそう気にされることではない。スポークスマン、会見の準備を。読者諸兄に安心せよ、と語りかけたまえ。
 ──それにしても、わたくしはどうしてこのような、大海へ筏で挑むような作業に取り組もうと決めたのだろう。このエッセイを綴りながらずっと自問していた。結論は出なかった。仕方ないから大雨降らせる空を見あげて目を細め、手庇を作って、「太陽の仕業だよ、きっと」と呟こう。これの原作が新潮文庫に入っていないことは百も承知である。◆

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