第2345日目 〈悩める浅学非才の八方美人〉 [日々の思い・独り言]

 プロであれアマであれ著述に携わる人は自分の書く文章についてなにかしらのこだわりを持っているものだろう。こだわりのテーマがあるだろう、というた方がよいか。たといそれがどんなものであれ。
 柴田宵曲『俳諧随筆 蕉門の人々』(岩波文庫)を寝しなに開いて目を通していた。その折にふと、本当になんの前振りもなく唐突に、自分が書きたいことっていったいなんだろう、と思うたのである。これこれのことを専門とし、それについての文章を中心に書いている。そう胸を張って、あたかも名刺を差し出すかの如くにいえる<なにか>が果たして自分にはあるのか。
 ──自問自答しても進展はない。「さあ?」という、なんとも無責任な声が返ってきて空しくなるばかりだ。いったい自分がこだわりたい/執着するテーマとはなにか? 敢えていうならば、それは人の死、人の悪意について、であろうか。でも、それらはこだわりというよりは背に張り付いて離れぬゴーストというのがはるかに正しい。聖書にまつわる事柄がこだわりと呼ぶに相応しいものになるか不明である以上、現時点では曖昧なことしか考えられない。
 思うに自分は浅学非才の八方美人なのだ。学生時代に芭蕉の俳文の一節に出会い、そこへ自分の想い、そうして理想を重ねた。我も斯くあらん、と念じたのである。「無能無才にして此一筋につながる」(「幻住庵記」『芭蕉俳文集』上 P52 岩波文庫)ことを目指してきたはずなのに、「此一筋につながる」ようなものをわたくしは見出せたのか? しばし瞑目して叱るに、否、と力なく頭を振るよりないのが現実だ。嗚呼、と嘆息せざるを得ぬ。82歳での往生を目論んでいるわたくしとしては人生の半分を折り返し点を過ぎているのになに一つままならぬ、定まるところなしというのはどうしたことか。
 特にこれというこだわりを表明することなく、そのときに書きたいもの、書きたいことを俺は書く。そんな風に達観できればよいのだけれど、その境地に達するのは性格的にチト難しそうである。◆

共通テーマ:日記・雑感

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。