第2391日目 〈『ザ・ライジング』第1章 12/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 弱々しい緑の光が、視界の端を彩っていた。ユニゾンの男声合唱がかすかだが、しかしはっきりと希美の耳に触れた。こんなCDかけた覚えないよ、私。持ってないもん。それに……。希美は固く口を結んで寝返りを打ち、布団を肩がすっぽり隠れるぐらいまで引きあげた。合唱に女声が加わり、厳かに金管の調べが響き渡った。ホルンが歌っている。あ、これ……。
 モーツァルトの《レクイエム》だ。
 夢うつつの境界をさまよいつつもゆっくりと、時間が流れているこちら側の世界へ引き戻されかけているとき、いま部屋に流れているのが誰の、なんという曲なのか、思い出した。なんでよりによって、《レクイエム》? モーツァルトなら他の曲でもよかったじゃない。それこそ《アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク》とかピアノ協奏曲とか、それとかそれとか……。
え、と希美はふと、考えを巡らせた。
 ――誰がこれをかけたの? 誰がこれを聴いていたの、私以外の誰が?
 そして、
 なんで私、ベッドで寝てるの?
 布団を剥いでベッドに起き直った。裸ではなかった。パジャマを上下、ちゃんと着ている。なんの気なく右手でお尻を触ってみた。パンティのラインが掌に感じられる。自分で着たのだろうか? ぜんぜん覚えていないけれど、でも、他に着せてくれる人はこの家にはいない。それに私、お風呂場で気を失ったはずだ。誰がここまで連れてきてくれたんだろうか。――ママ? そうなのだろうか……。
「希美、大丈夫かい?」
 優しい響きの男の声が、すぐそばでした。希美にとっては忘れられようはずもない声。張りがあって奥行きのある、それでいて甘やかなバリトン。
 「――パパ? そうなんでしょう?」
声のする方向へ首を巡らせる。少し離れたところであぐらを掻きながら、その声の主は希美を見ていた。
 部屋は闇に包まれていた。ラジカセのパネルから発せられた淡い緑光だけが唯一、文字通り部屋に色を添え、家具や声の主の輪郭を浮かびあがらせている。
 声の主ははっきりとは見えない。
 「パパでしょ?」
 「ああ、そうだよ。心配していたけど、なんだか元気でやっているようで安心したよ」
 父の影は立ちあがり、希美の手に自分の手を重ねた。ぬくもりのある、大きな手だった。途端、思い出があふれかえってきた。
 「カラ元気だよ。押し潰されちゃいそう」
 「あんな形で君と別れるなんて思わなかったよ。いつもね、ママと話しているんだよ」
 「――なにを?」
 「希美とまた三人で暮らせるようになるには、あと何十年ぐらい待てばいいんだろうね、って。どう、なんだったらこっちに来るかい?」
 自分の顔の強張るのが、はっきりとわかった。そりゃ一緒にいたいとは思うけど、でもちょっと待って。私にだって心の準備ってものがね、パパ――。
 すると父は笑って、「ごめんごめん、冗談だよ。そんなこと話し合うわけがないだろう?希美はね、寿命を全うしてからこっちへ来ればいいんだよ」
 「もう! パパの意地悪!」
 頬をふくらませて口許には笑みを浮かべながら、希美はもう一方の手で父の胸のあたりを叩いた。いや、叩いたつもりだった。手はなにものにもぶつかることなく、空を切った。でも、掌のぬくもりは確かに感じている。
 それに気づかぬ様子で父は、
 「でも、あんな格好で死ぬのだけはやめておくれよ?」
 たちまち顔が真っ赤になった。――パパ、私の裸見たんだ!?
 「んーもう、パパのドスケベ!! ママに言いつけてやるから!」
 そして、二人の笑い声が約二ヶ月ぶりに、この部屋に満ちた。
 ちょっとあって、居間から鐘の音が四つ、壁越しにかすかに聞こえてくる。
 「さ、もう寝なさい。あと少しで夜明けだ。明日も学校でしょ?」こくん、と希美は頷いた。「じゃあ、もう寝なきゃ」と父が言った。
 「……どこにも行かないで」パジャマの乱れを直してベッドに潜りこみながら、父にそうねだった。
 父の大きな手が額に置かれた。
 「いつでも君を想い、見守っている。いつもそばにいるからね」
 ママも同じことをいってたな。雑誌の心霊特集に出ていた守護霊って、本当にいるのかもしれない。ううん、自分には確かにいる。私を生み、育ててくれた人達。私をいちばん愛してくれていた人達が、守ってくれている。うん。いつでもどこでも。――そう思うと安心して、急に眠気が押し寄せてきた。
 「ありがとう、パパ、ママ……」父が頷くのを感じて、希美は目をつむった。「さっきね、ママに会ったんだよ……」
 「うれしかったろうね?」
 返事はなかった。まだあどけなさが残る娘の寝顔を見て、まだ子供なんだよな、いくら大人びてきたとはいえ。そう思う父の口許に、笑みが静かに浮かんだ。
 しばらくベッドの横にいて、希美が生まれた日から最後の別れの日までを思い出していた父は、娘が完全に寝入ったのを確かめると立ちあがり、身をかがめて額に口づけた。
 「おやすみ、希美。君がどこにいようとも」
 ドアのそばにいる妻と目が合い、ほほえんだ。その肩を抱いて、しばし一緒に娘を見やった。そうして眠っている娘を起こさぬように、後ろ手でそっとドアを閉めた。□

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