第2392日目 〈『ザ・ライジング』第1章 13/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 深町家の居間で希美の母が、ビールを飲んでいる夫に向かって、なんで希美に「おめでとう」っていってあげなかったのよ、となじられ、後の祭りと後悔しながら、今度会ったときは忘れずにいうよ、とうなだれたのとほぼ同じころ、三島駅北口から歩いて十分ばかりのところにあるマンション、クレイブホームズ三島長泉町弐番館の五階の、ある部屋の手摺りに一羽のカラスが羽を休めようと留まった。その目はカーテンの引かれた窓へ向けられている。ペアガラス窓とオレンジのドレープカーテンの向こうでは、森沢美緒が壁に対して寝息を立てていた。
 美緒は夢の中にいた。
 誰かと誰かが人気のない石造りの塔の頂上を目指していた。壁に沿って設けられた螺旋階段を、声を交わすこともなく一段一段を踏みしめて歩いている。塔の中は冷えきって、少しでも体を動かしていなければたちまち凍ってしまうのではないか、と訝しみたくなるぐらいだった。二人は頭からすっぽりと頭巾をかぶり、表情は覗きこまねばわからないぐらいである。頭巾は肩から足許まで、弧を描くように垂れており、階段を一歩登るたびに裾がめくれた。
 進む先が明るくなってきた。後ろの者がそちらを見やったが、口許にはなんの表情も浮かばなかった。最後の一段を登ると、少しの飾り気もない小部屋が一つ、あるきりだった。回廊と異なっているのは、壁に一カ所、約四〇センチ四方にくりぬかれた窓があり、そこから外の世界が見晴らせることだった。しかしそのわずかな空間も、立てに鉄格子がはめこまれ、ほんのわずかでも頭を出して巡らせることはできなかった。
 部屋のほぼ中央に向かい合って立つと、二人はあたりを見回して、どちらからともなく抱き合った。衣擦れの音が、小さく聞こえた。顔が近づき、唇が触れる。舌が淫靡に絡まり、掌が相手の体を這ってゆく。床へ折り重なるように倒れ、上になっていた者が組み敷いた相手の衣の胸元をまさぐり、はだけさせた。小さな乳房があらわになり、上の者はもう固くなっている乳首を口に含んで、吸った。引き裂くように衣を脱がせ、指と舌は徐々に股間へ降りてゆく。薄い草むらを指の腹でさすり、舌で舐めあげる。さすがに相手の反応があり、彼の者は荒々しく相手の秘めたる聖域を汚しにかかった。やがて、脚を開かせて股間に顔を埋めていた人物が、満足げな笑みを口許にたたえながら、自分が意のままにしている相手の顔を見ようと、ゆっくり頭をあげた。その顔は森沢美緒に他ならず、彼女は相手の名前を、あたかも慈しむかのような口調で囁いた。そっとほほえみながら、「希美ちゃん……」と。
 ――目が覚めてみると、頬と枕が涙に濡れていた。耳たぶや髪まで湿り気を帯びている。美緒は体を横にしたまま、手の甲で拭い、指先で髪を払って、頭を少し動かして枕の濡れた部分から離れた。目を閉じ、また開く。視線が吸い寄せられるように、机の上の写真立てに向けられた。〈旅の仲間〉四人で今年の夏に港へ出かけたときに撮った写真だ。いちばん左端に美緒がいて、その横に希美がいる。涙が一条流れ落ちた。下唇を噛んだ。
 なんであんな夢を見てしまったんだろう……もう見ちゃいけない夢なのに。想う人の幸せのために、けっして見てはいけない夢を見てしまった。でも――、
 「諦められないよ、希美ちゃん……」
 美緒は目をつむった。ときどき肩を小刻みにふるわせ、か細い泣き声をあげながら。
 枕許の時計の針は、四時四十八分を指していた。◆

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