第2384日目 〈『ザ・ライジング』第1章 5/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 冷蔵庫には二日前、スーパーの特売で買った若鶏の骨付きモモ肉が一本、ビニールで包んで入っていた。本当はマグロのヅケを作ろうと思ったのだが、予想外に高かった(六三八円もした!)のとタイムサービスの対象になっていなかったので、予定を変更して安く売られていた若鶏を買ったのだ。冷飯もどんぶりに二杯分あった。今夜はチャーハンと若鶏を焼けばいいや、と希美は考えた。あとは果物と――余力があればサラダでも作ろうかな、と考えて、やめた。トマトを切らしていたのを思い出したからだ。冷蔵庫の扉にマグネットで押さえてある〈お買い物メモ〉に「トマト」と書きこんだ。
 まるで主婦だね。
 (のの、いつでもお嫁さんOKやなあ、うらやましいわ)高校受験が終わって授業も間遠になり始めていた中学三年の三月、小学二年からずっと一緒の宮木彩織が泊まりに来た日の夜、希美の部屋でのらくらしていたときに、ふと彩織の口からこぼれた一言が脳裏に甦る。普段は歯切れのよい、聞いているだけで元気が湧いてくるような彩織の関西弁がそのときに限って、やけに物憂げな調子だった。なんだか瞬時に座がしんみりしてしまったこともよく覚えている。彩織だってお料理上手じゃない、という希美のフォローに彩織は右手を振りふり否定し、いや、ののには適わんよ、ほんまに、と続けた。その後はすぐに大好きなTOKIOの話題に移ったので、あまり深くは考えずにいたが、いまにして思うと……さては彩織、あのとき好きな人でもいたのかな、と想像した。そういえば彩織の口から好きな人の話しって聞いたことがなかったな、といまさらながら希美は思い当たった。いつも彩織って誰かの縁結びに奔走していたように思うのは、気のせい? 小学校の時も中学の時も、それに今年は――私とあの人の縁結びに一役買ってくれた彩織(ありがとう!)。よおし、今年のイヴは美緒ちゃん達と彩織を集中攻撃だ。
 口許をほころばせながら、点火させたガスコンロにフライパンをかけた。温まってきたところで植物油を薄くひき、骨に沿って切りこみを入れた若鶏を油がはじけぬように静かに置き、火力を調節し、いらなくなった広告でフライパンの口をふさいだ。油と肉汁のはじける音が一段低くなって聞こえた。
 さて次はチャーハンだ。冷蔵庫から取り出したどんぶりのラップをはがすと、モモ肉のときと同じように別のフライパンに油をひき、そっとあけた。木ベラでほぐし、具のベーコンやグリーンピース、細かく刻んだ人参を混ぜた。ときどき若鶏をひっくり返す。チャーハンを炒める。しばらくはそれを繰り返した。やがて米が程良い黄金色になり、香ばしい匂いが鼻をついた。木ベラで少量をすくい、指でつまんで口にしてみる。もう少し炒めた方がいいかな。
 そうこうしているうちに若鶏はこんがりときつね色に焼きあがっていた。切りこみを広げてみても、血があふれてきたりはしなかった。念のために菜箸で二、三カ所を挿してみる。大丈夫そうだった。牛肉ならレアで食べてもそれなりに味を楽しめるが、鶏肉となるとそうはいかない。肉の味や歯応えよりも前にゾッとするような感触の血が唇と舌を射て、喉を通るときの背筋が寒くなる感覚は、思い出しただけで身震いがする。鶏肉は中までこんがり焼きあげられてこそ、食卓へ並べるにふさわしい食べ物なのだ。希美はそれを中学一年の夏休みに市が主催した林間学校に参加したとき、同じ班だった彩織ともども思い知ったのだった。
 食器棚から香蘭社の平皿を出して若鶏を乗せた。付け合わせ(といっていいものかどうか悩むところだが)は一緒に軽く焼いた、スライスした人参。昨年の春、吹奏楽部の合宿を箱根でしたとき、最終日にやった焼肉パーティで焼き野菜を初めておいしいと思って以来、希美は家でも外でも(焼肉屋に行くなんてことは滅多になかったが)好んでそれを食べるようになった。最初は笑っていた彩織も藤葉も、希美につられたか、いつしか黙々と口に運ぶようになっていた。
 チャーハンもそろそろ食べ頃だ。火を消すと用意しておいた器に、こぼさぬように丁寧に移し替えた。湯気が立ちのぼり、香ばしい匂いが台所に満ちた。それに刺激されたのか、再び希美の腹の虫がわめいた。『ピーナッツ』のエピソードが、こんなときはいつも思い出される。チャーリー・ブラウンがいつもより少し早くご飯皿を持ってくる。しかしスヌーピーはそれを目の前にしても口をつけようとしない。「僕は起きているが、お腹はまだ眠っている」から。スヌーピーのようにお腹の意思は尊重するべきだ、と希美は思う。余裕があるときは。しかし、たまには無視することも必要だ。
 さて、遅くなったけど、夕飯にしよう。□

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