第2385日目 〈『ザ・ライジング』第1章 6/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 居間の座卓に料理を持ってゆき、箸とナイフをそろえる。なんだか妙な取り合わせだなあ、と楽しくなった。ね、そう思わない? そう呟きながら、希美は居間の一角にある仏壇に目をやった。
 急須に茶葉を落とし、ポットからゆっくりお湯を落とした。湯気が白く立ちこめ、ゆらゆらと朧にゆらめいてゆき、すぅっと薄くなって、消えた。蓋を閉めてそっと何周か急須をまわし、四脚の茶碗に音をさせないように静かにお茶を注いだ。何回かに分けて注ぎ終わると、小盆に茶碗三脚を乗せて仏壇の前で座り直した。片手で盆を持ちながら、もう片方の手で茶碗をそれぞれの仏壇の前に置く。一脚は先祖代々の位牌に、もう二脚はまだ新しい黒檀の位牌と写真の前に。
 希美は盆を脇に置いた。鉦をたたくと目をつむって合掌した。刹那、死者達との思い出がよみがえり、浮かんで消えていった……。
 死者は歌うか? 死者は愛するか?
 囁くような声で、希美はそっと呟いた。「今日も一日、無事に過ごせたよ。ありがとう。パパ、ママ……」

 食事をすませると、すぐに洗い物と片附けをして一息ついた。昼間に録画しておいた映画を観ようとヴィデオをまわしたが、予想外につまらなかったので、三〇分ばかり見たあたりで消した。たまっていた新聞や広告に目を通していると、今日はいつも使うスーパーの特売日だったらしい。しまったあ、と唸って、仕方ないか、と溜め息をついた。だって今朝は寝坊して新聞に目を通す時間がなかったんだもん。
 そんなこんなをしているうちに時間は過ぎてゆき、気がつけば時計の針は十時半を回っていた。いまからテレヴィ観ても、もう発表は終わっちゃってるよなあ……。いいや、明日になれば彩織が教えてくれるよ。聞くのもなんだか怖いけど。
 希美は新聞をたたみながら(明日からは広告だけは必ずチェックして、学校に行こう!)、お風呂に入っちゃおうかな、それとも、二、三〇分練習しようかな、と迷った。
 しばし迷ったあげく、練習をすることにした。部屋へ戻り、テューバの入ったハードケースを開ける。中学二年の誕生日に両親から贈られた、自分だけの大切な楽器。以来、一日たりとも練習を行わなかった日はない。もちろん、実際にテューバを吹かない日はある。が、吹奏楽をやる者にとって楽器を吹かない日はあっても、アンブシェアの練習をさぼる日はない。そんな輩がいるとすれば、まじめに吹奏楽していない証拠だ。
 ゴールドラッカーで仕上げられ、部屋の蛍光灯の明かりを受けて鈍い輝きを放っているテューバの表面を撫でながら、少しだけ音出ししてみようかな、と考えた。防音工事が施された部屋だから、きちんと閉めきっていさえすれば真夜中に思いっきり噴いても、苦情がくることはない。それはもう実証済みだった。が、でも、とすぐに思いとどまった。朝練で一時間、放課後も自主練で二時間も吹いていたのだ。さすがにもういいや、と疲れも手伝って諦めた。吹くのはやめておこう。
 アンブシェアだけ軽くやっておこう、と希美は考えた。これとて放課後、練習から戻ってきたあと、教室で森沢美緒の宿題を丸写ししながら、マウスピースを唇にあててしていたのだが。
 通学鞄から折りたたみの手鏡を出し、ハードケースからマウスピースを手にする。鏡を開いて唇を映した。薄く、形のよい艶のある唇だった。「あ・い・う・え・お」と声にして、唇の形を確かめてゆく。良い音、綺麗な音を出すにはアンブシェアができていないとお話にならない。母の奨めもあって中学に入学すると吹奏楽部に入り、その最初の練習のときに顧問だった教師(担当は地理だった)からいわれたことがある。そりゃそうだよね、と希美は考えた。唇の形がちゃんとなってなきゃ、まともな音なんて出っこないんだから。批判するつもりはないけど、トランペットやってる赤塚さんなんていい例だと思う。□

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