第2386日目 〈『ザ・ライジング』第1章 7/13〉 [小説 ザ・ライジング]

 まあ、それはともかく。お話を進めましょう、と希美は作者に促した。オーケー。
 唇を内側にすぼめてマウスピースをあてる。ブレスしてみる。わずかではあるが、唇とリムの間から息が洩れた。リムの位置をほんの少しずらして、再び、ブレス。今度は息洩れもせずにスロートから流れるように、ひゅうと音を伴いながら息がなめらかに出てきた。しばらくタンキングやロングトーンの練習を繰り返しているうち、ふと、秋の学園祭で披露した曲を吹いてみようかな、という気になった。元はドビュッシーのピアノ独奏曲なのだが吹奏楽用にアレンジされた《亜麻色の髪の乙女》だった。学園祭での曲を選ぶ際に希美とマネージャー、あともう一人クラリネットの一年生の三人で頭を悩ませていたとき、寄りかかった拍子に崩れた楽譜の山から偶然に見つけだし、一回の読譜ですっかり気に入ってしまった曲だった。テューバのパートだけ、吹いてみよう。マウスピースだけ、テューバ本体はなしで。
 当然ながら、テューバ特有のずっしりとした低音が響くわけでも、牧歌的な音色が聞こえてくるわけでもない。にもかかわらず、希美は巧みにブレスを調整し、トーンを効かせ、メロディアスな唄を、朗々と奏でていった。といってもすぐにテューバのパートは終わってしまうので、もう一度最初から。なんだか夢を見ているような、ふわふわした感覚を覚えた。足が地に着いていないような、このまま天上までのぼってゆけそうな快楽。「ここではふわふわ、みんな浮いているぞお!」とばかげた化粧で叫んでいる怪物の出てくるホラー映画を見たような覚えがあるが、あれはいったいなんだったっけ……。
 ふと一瞬、気の遠くなるのがわかった。そうなったときはイエロー・カード。警告!
まだ自制心があるうちにやめておこう。……それでもマウスピースを離しがたく思っていたその矢先、充電中ながら電源を入れたままにしておいた携帯電話が、けたたましく鳴り始めた。

 マウスピースを唇に押しあてたまま、携帯電話を見やった。気づけば眼は涙で濡れている。ひどく潤んでいたようで頭を振った途端、頬を斜めに涙が流れてゆき、首筋を伝ってパーカーの隙間から鎖骨へしだれていった。見様によってはエロティックな光景だった。
 電話は相変わらず鳴っていた。これ以上鳴らしていると、向こうから切れてしまうかもしれない。留守電につながってしまう可能性だってある。ただでさえ高額な基本使用料を取られている上に、こちらから(なんの用事かも定かでない相手に)かけ直すのは避けたいことだ。仕方なく唇からマウスピースを離し、左手の薬指と人差し指で挟みながら、右手を宮台へ伸ばして携帯電話を取った。
 誰だろう、と思う間もなく「あっ」と叫び、急いで通話ボタンを押した。「もしも――」
 「遅いぞお、のの。かわいい彩織ンをいつまで待たせる気やあ?」
 受話口の向こうから聞こえてくる、耳馴れた関西弁。いうまでもなく宮木彩織だった。ころころした軽やかな声はいつもと同じだ。
 「ごめんね、出るの遅くなって。ちょっと練習してたから」
 「そうやったんか、すまんかったなあ。――明日学校で話そうか?」
 「ううん、いいよ、もうやめようと思ってたところだから」
 それに我慢なんてできないでしょ、彩織は。いつでもなにかを話したい人だから。
 「なあ、のの」
 「どうしたの、元気ないよ?」
 彩織が深呼吸する気配が、はっきりと伝わってきた。興奮しちゃうようなニュースでもあったのかな。ん、もしかして、あのことかしら――? こちらから話の進みを促そうとしたときだった。
 「のの、うちらやったで! 上位十人に二人してランク・インや!」
 もうこれ以上はないというぐらいの取り乱しようで、彩織が絶叫しながら報告した。希美はひょいと時計を見た。十一時を回ったところだった。耳をすませば彩織の後ろで、彼女の両親と弟が大騒ぎしているのがよくわかる。彩織と希美が二人そろって快挙を成し遂げたことに、きっと興奮しているのだろう、と希美は推測した。
 きっと本当に違いない。が、希美はそう簡単には信じられなかった。だから、確かめるように訊いてみる。□

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